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二度目の歌劇

 顔の(あざ)もすべて消え、本来の美しい顔立ちを取り戻したアンリは、仕事に復帰することになった。  再び指名を受け、一時その人の恋人となって精いっぱいの愛を捧げる。だが、なぜだろう。久しぶりの仕事だからか、どうにも気が乗らず、稼ぎ頭としてばりばりに働いていたころの感覚をなかなか取り戻せずにいた。  どうすればよいのかと懊悩としている間に日が暮れて、開店時間がやってくる。最初の客がセドリック卿だったことにほっとしてしまった。だが、すぐに、安堵してしまう自分に戸惑う。  まるで誰かに抱かれることを拒んでいるかのようだ。本来の業務を拒絶するなんて、由々しき事態である。 「今日はまたオペラを見に行こう」  悩んでいたはずのアンリは、セドリック卿のこの誘いに胸を躍らせた。リュドヴィックの歌声をまた堪能することが出来るのだ。 (いや、別にそれだけが目的ってわけじゃないから)  浮かれる自分にもう一人の冷静な自分がツッコミを入れる。あくまでも食わず嫌いを後悔するほど感動した歌劇をまた鑑賞できることが嬉しいのだ。  そう自分自身に言い聞かせ、アンリはしばし心を舞台の上へと旅立たせる。  やはりアンリは歌劇が好きなようだ。ストーリーも、特に後半が原作とは異なり、王子と人魚姫を乗せた船が嵐に巻き込まれたところで、人魚姫が魔女との約束を破って人魚に変じ、見守っていた姉たちの力を借りて、船を安全な場所へと誘導する。  魔女との契約を破った人魚は泡になるはずだったが、魔女の眷属(けんぞく)がかつて人魚姫に救われた過去があり、その礼として再び人間の足を授けてもらう。  人魚になった姿を目撃したことで、王子は人魚がかつての恩人だと思い出し、二人は結ばれてハッピーエンドという締めくくりだ。  とても素敵なお話だった。最後には陸の人間と人魚との間にあった確執も消え、王子と姫の結婚を二つの種族が盛大に祝うという、華やかなラストだ。 (あれ、でも……)  舞台に出揃い(こうべ)を垂れる団員達に惜しみない拍手を送っていたアンリは、ふと違和感を覚えた。リュドヴィックがアンリに聞かせたセリフがなかったのだ。  すべてが歌で構成されているから、聞き逃してしまったのだろうか。いや、歌手たちの発音は皆明瞭で、独特のテンポだったとしてもはっきり聞き取れていた。 (歌詞(セリフ)が変更になったのか? そんなことも、まあ、あるのかもな)  どの業界にも急な変更やら修正が加わることはあるのだろう。だから対して気にも留めず、アンリはセドリック卿とともに歌劇場を出た。 「失礼、ミスター。お電話が入っております」 「僕にかい?」 「大丈夫。待ってるよ」  アンリの方を気遣う様子を見せるので、アンリは軽い声色で言った。 「すまない。すぐに戻るからね」  早口に言って去っていく背中を見送りながら、大変だな、と同情する。  背筋はしゃんと伸びているし、髪も色が抜けている以外は艶があって若々しいし、後ろ姿だけ見ると実年齢よりもずっと若く見えるセドリック卿だが、彼はもう息子たちに生前分与も済ませ、少ない(といってもあくまで貴族の目線から見て)財産を頼りに隠居生活を送っているはずなのだ。  しかし現役時代はセドリック家の伝統を傷つけないよう努力する一方、新たな事業を手掛けて大成功を収めるという偉業を成し遂げた彼を、跡取り息子は未だ頼りにしているらしい。  きっと今の電話も息子からだろう。何度かぼやく姿を見ていたアンリだが、間接的とはいえ実際に現場を目の当たりにするのははじめてのことだった。  帰って行く客たちの邪魔にならないよう階段を下りて手すりの陰に寄りかかり、セドリック卿の帰りを待つ。  退屈なのと、まだ歌劇の感動の余韻が残っているからか、気付けば劇中の歌を口ずさんでいた。  声量は抑えているものの、すぐ後ろの階段を下りてくる客たちには届くらしく、彼らはしばし足を止めアンリの歌声に聞き惚れている。しかし会談に背を向けているアンリはそれに気付かなかった。そもそも歌っていることすらほぼ無意識なのである。 「見つけたよ。アンリ……」  その歌声が止まったのは、絡みつくようにねっとりとしているのに、落ち着きがなく震えた声が聞こえたからだった。  無意識とはいえ気持ちよく歌っていたアンリが顔を上げると、そこに会いたくなかった人が亡霊のように佇んでいた。  本当に亡霊と例えるのがもっともふさわしい容貌だった。  最後に会った時には貴族らしく身綺麗にしていたはずなのに、普段は撫でつけている髪は寝起きのようにぼさぼさで、自信家の表れのようにいつも傲然(ごうぜん)と胸を張っていたはずが、今はまるで老爺(ろうや)のように背中を丸めている。  頬はこけて、唇はかさつき、両手はだらりと前方に垂れ下がって、そんな不気味な格好のままじりじりと距離を詰めてくる。 「……ブリックス卿」  その姿を見ただけで、その声を聴いただけで、アンリは身体がおかしくなってしまったのではないかというくらいに震えだした。未遂で済んだとはいえ殺されかかった相手なのだ。恐怖して当然だが、人は恐怖すると冷静な判断力を失ってしまう厄介な性質がある。  ここに居たほうがよほど安全だと分かっているのに、気付けばアンリは駆け出してしまっていた。なぜか立ち止まっている観客たちの間をすり抜け、歌劇場の中へと戻って行く。  おそらく本能的にリュドヴィックを探していたのだろう。彼ならば助けてくれるという確信が、なぜかアンリの中にあったのだ。その確信に突き動かされるようにして、客の消えた通路へ……人気のない場所へと向かってしまう。

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