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危機
以前、ここでリュドヴィックと出会ったのは偶然だった。公演を終えたリュドヴィックがどこにいるのかすら、アンリは知らないのだ。
だからやたらと広い歌劇場の中を、当て所もなく駆け回ることになった。足を止めることは出来ない。何しろ振り向けば必ず視界に狂気的に目をぎらつかせている男が入ってくるのだ。まるで猫のように、狩りを楽しんでいるようにすら見える。あるいは、アンリの体力が切れるのを待っているのだろうか。
(そもそもあの電話自体、罠だったのかも……)
息を切らしながら、ともすれば恐怖で真っ白になってしまいそうな思考を必死に働かせる。思えばあの係員の男は迷うことなくセドリック卿に声をかけた。座席に座っているというならまだしも、外に出て帽子をかぶり、しかも後ろ姿だったにもかかわらずだ。
もしかすると係員は背後の男、ブリックス卿に買収されていたのかもしれない。アンリをセドリック卿から引き離す為に、電話が入っているなどと噓をついたのかも。
今頃気付いたところで後の祭りだ。とにかく、どこかの部屋に隠れるなりして撒かなければ。
ちょうど長い通路の両脇には一定の感覚で扉が見えている。
しかし、立ち止まってドアノブに手をかけたとして、もしも施錠されていたらと思うと怖いし、入った先に人がいて巻き込んでしまったらという懸念もある。結果的にアンリは通路をただひたすら疾駆するしかないのだが、何しろ病み上がりだ。ぼちぼち息が切れてきた。
「あっ……!」
足がもつれ、力が入らなくなる。まずいと思った時には、走っていた勢いのまま廊下に倒れてしまった。固い大理石の床にとっさに着いた手が擦れる。
「う……」
呻きながら、痛む身体に鞭打って起き上がろうとするアンリの上に影が覆う。心までもが曇天に塗りつぶされていくような絶望感の中、アンリは恐る恐る顔を上げる。
「鬼ごっこはもう終わりかな?」
「……ひっ」
口の端を吊り上げた不気味な笑みが、まるで悪魔のように見えた。目はぎらついて刃物のようで、アンリは蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなってしまう。
「どいつもこいつも、君と僕を別れ別れにしようとするんだ。酷いだろう?」
酷いものか。未遂とはいえ男娼を殺めようとした客など出禁になって当たり前だ。いつもの強気な自分がそう叫んでいるのに、極寒の地に放り出されたかのように歯の根が合わない所為で言葉にならない。
「まるで僕たちはロミオとジュリエットのようだね。アンリ」
あいにくだが、アンリは芸術にはとことん疎いのだ。この世で知っている物語はリュドヴィックの歌劇で見た二作品のみ。
「僕たちも、彼らと同じ結末を迎えようか。そうすれば、もう誰も僕たちの邪魔をしない」
いったい全体どんな結末なのかは知らないが、ろくでもないだろうことは想像に容易かった。じりじりと迫ってくるブリックス卿は、数日前、最後にアンリと出会った時と同じ物騒な気配を溢れさせている。
「……!」
そんな悪い予感は、どうか外れていてほしかった。だが、ブリックス卿がポケットから折り畳み式のナイフを取り出したことで、的中してしまっていたことに否が応でも気付かされる。
「向かう先は来世か、死後の世界か。どちらにせよ、僕は君を離さないよ。アンリ」
猟奇的な笑みを浮かべながら片手でアンリの肩を押さえつけようとする。
あわやの所で死にたくないという気持ちが暴発した。渾身の力で暴れ、顔面に拳を叩きこむ。まさか抵抗されると思わなかったのか、アンリの攻撃をまともに喰らったブリックス卿が怯んでいる間に、よろめきながらも立ち上がった。
「この……!」
「あっ……」
そのまま逃げようとするが、後ろから肩を掴まれる。
薄い肉に指が食い込む痛みに顔を顰めている暇はなかった。身体を反転させられたアンリは、銀色の輝きが自身の心臓めがけて振り下ろされていることに気付き絶望した。
ああ、死ぬのだ。アンリは直感した。友の顔と店主の顔、セドリック卿の顔や母の顔、そしてリュドヴィックの顔が連続で脳裏によぎる。多分これが走馬灯なのだ。愛する人たちの面影に守られながら、アンリは生涯を終えるのだ。
風を切る音と、布地と肉を裂く嫌な音。旅立つ瞬間が訪れたのだと思った。
「……え?」
だが、痛みがない。痛みが激しいと先に熱さを感じるが、それすらなかった。ただ、何かがぶつかった衝撃だけが名残のように残っていて……。
「……リュ、リュドヴィック!」
固く閉じていた双眸を開いたアンリは悲鳴を上げた。リュドヴィックがアンリとブリックス卿の間に割り込み、身を挺してアンリを守ったのである。
「あ……あっ、うそ……」
助けを求めていた相手にようやく出会えたのに、アンリの胸中に芽生えたのは安堵ではなく不安だった。何しろ、アンリの心臓を貫くはずだったナイフがリュドヴィックの腕に突き刺さっているのだ。
「酷い、こんな……っ」
ショックのあまり視界が潤む。瞬きをして膜を涙として流し、震える手で刺さったままのナイフに手を伸ばすが、その手にリュドヴィックの手が重なった。
「今は抜かないほうがいい」
鼓膜を揺らすのは、場違いなほど穏やかな声だった。だがそのおかげでアンリもいくらか平静を取り戻す。
そうだ。今ナイフを抜いたら、余計に出血してしまう。
「ごめん、ごめん……俺を庇って」
痛いのも泣きたいのもリュドヴィックの方なのに、どういうわけか涙が止まらない。涙と洟でぐしゃぐしゃのアンリの頬を撫で、リュドヴィックは綺麗に微笑んだ。
「大丈夫。少し待っておいで」
リュドヴィックはそう言って、アンリに背を向けた。その背中の向こうでは、アンリを仕留め損ねたブリックス卿が憤怒の表情で歯ぎしりをしている。
「邪魔立てするな! 部外者がぁ!」
普段着こんでいるかりそめの紳士の仮面も剥がれ落ち、髪を振り乱して叫ぶ様は本当に悪魔に憑りつかれているかのようだった。
「部外者ではない」
リュドヴィックは静かに言い放つと、まるで熊のように両手を振り上げて襲い掛かるブリックス卿の顎を、固い革靴のつま先部分で容赦なく蹴り上げた。
骨が砕ける音が聞こえ、ブリックス卿がうめき声をあげてその場に崩れ落ちる。抑えた指の間から血が溢れて流れ出す。それでも血走った眼でリュドヴィックを睨んでいた。
まだ気力だけで起き上がってきそうな気配がある。リュドヴィックは怪我をしているのに、これ以上痛い思いをしてほしくない。
どうすればよいのか。真っ白になった頭で必死に捻りだそうとしていると、アンリの背後から二人分の足音が聞こえた。
「そこまでよ」
耳に馴染む、アンリにとっては恩人の声。振り向くと、アンリのすぐ後ろにエティエンヌとセドリック卿の姿があった。
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