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想い託され

 今までもこうしてリュドヴィックの誘いをにべもなく断り続けてきた。だが、今回は今までとは異なる。今度こそ本当に最後なのだ。  アンリはこれから、風切り羽を切られた鳥のように籠の中で飼われることになる。もう自由に外に出ることすらできなくなるのだ。  リュドヴィックを辱め、二度と店に来ないよう仕向けた時ですら、これほどの絶望感はなかった。たぶん、心のどこかでリュドヴィックが懲りずにやってくると分かっていたからだろう。  だけど、今度こそおしまいだ。もう二度と、リュドヴィックには会えない。 「う……」  今日のアンリは涙腺の調子がわるい。ちょっと刺激しただけですぐにぽろぽろと涙が溢れてくる。 「いやだよ……」  もしかしたら、恐怖のあまり幼児退行してしまったのかもしれない。だってこんなの子供みたいだ。 「リュドヴィック……、俺、リュドヴィックが……好きなんだ」  こんな事を言われても、リュドヴィックにとっては迷惑でしかないと分かっているのに。涙と一緒に、胸に秘めるはずだった本心までもが零れ落ちる。 「離れたくないよぉ……」  感情の制御が出来ないのも、致し方ないことだった。何しろこれが、アンリにとっての初恋であった。  抑えきれないほどあふれ出す恋情を、未経験のアンリが上手く処理できるはずもないのだ。だから、子供のようにしゃくりあげながら、すすり泣くことしか出来なくなる。  こんなことははじめてだった。子供のころから自分の身は自分で守らねばならず、男娼として働き始めてからも泣き言も言わず精いっぱい勤めてきた。実際の年齢よりも大人びていると自負していたのに、こんなふうに泣いてしまったら、なんだか嘘つきみたいじゃないか。  なのに拭っても拭っても、涙が止まることはない。気付けば、上体を起こしたリュドヴィックの胸に顔をうずめていた。それだって、リュドヴィックは寝ていなくちゃいけないし、このままでは彼のシャツを濡らしてしまうとわかっているのに一向に離れることが出来ない。  リュドヴィックも片腕だけで器用にアンリを抱きしめ、つむじに口づけを落として、アンリを慰めてくれる。 「どうしても取り消すことは出来ないのでしょうか」  歯がゆそうに、悔しそうに、リュドヴィックがエティエンヌに問う。 「無理ね。もう契約は成立しているもの」  エティエンヌは商魂たくましいが、悪徳ではない。  きっぱりと否定するからには、もう今更あがいたところで効果がないところまで話が進んでいるのだろう。  エティエンヌの事だ。ブリックス卿のような自分本位に男娼を弄ぶようなサディストではなく、アンリを心から想ってくれる人を選んでくれたのだとは思う。だったら、アンリはおとなしく従うのみだ。エティエンヌに大恩を感じているのならなおの事。 「それに離れ離れにはならないんじゃないかな」  懸命に自分の感情を整理していると、意外な声が会話に加わった。  そういえばこの場には、たまたま居合わせたセドリック卿も同席していたのだった。しかも今のアンリはセドリック卿に指名されている真っ最中なのだ。トラブルが起こって取り乱していたとはいえ、指名中でありながら他の男に抱きついてしまった。  プロ失格の大失態だというのに、慌てて振り向いたセドリック卿は、ソファに腰掛けてにこやかに微笑んでいる。 「離れ離れにならないとは、どういう事でしょうか」  慌てているアンリの代わりに、リュドヴィックが尋ねた。セドリック卿は待ってましたと言わんばかりに得意気に髭を撫でつつ答える。 「アンリを買ったのは、僕だからね」 「えっ……!」  アンリは驚愕に目を丸くした。セドリック卿はそんなアンリのリアクションに満足げに声を立てて笑う。こんなに楽しそう……というか、子供っぽいセドリック卿は初めて見る。まるで、びっくり箱を開けさせた子供の反応だ。 「アンリ、少し長くなるが、いつものように僕の昔話を聞いてくれるかい?」  いたずらっ子な笑みが、寂寥を含んだものに変わる。亡くなった奥さんの話だと直感し、アンリは頷いた。  セドリック卿はありがとう、と礼を言い、穏やかな声で話しはじめる。 「アンリ、君は歌劇が好きだろう?」 「え……」  好きか嫌いかで言えば、もちろん好きだ。だが断言する聞き方に驚いてすぐには答えられなかった。 「反応を見ればわかるさ。あんなふうに目を輝かせて、頬を染めて、舞台に釘付けになっていればね」  アンリの答えを待たず、セドリック卿は続けた。その内容に、今度は照れくさい気持ちになる。どうやら観劇中の自分は想像以上に表情豊かだったらしい。アンリの中ではもう少し、抑えることが出来ていたつもりだったのだが。 「妻もそうだった」 「奥さんも……?」 「ああ。彼女はね。本当はオペラ歌手になりたかったんだ。そのくらい歌劇が好きだった」  寂しそうに、切なそうに、セドリック卿は語った。悲哀の表情にアンリの胸も締め付けられる。 「だけど、生まれつき貴族だった彼女には叶えることのできない夢だった。だから僕も、新婚当初はよくオペラに連れて行ったんだ。舞台に立つことは出来なくても、歌劇を見ることで、少しでも愛する世界に浸れればいいと思ってね」  だが、日々移り変わる時代の荒波に飲み込まれて転覆してしまわないよう、セドリック卿が新たな事業に着手してからは、忙殺される日々が続いた。  それまで頻繁に出かけていたオペラ鑑賞もめったにできなくなったが、彼女は文句も言わず、貴族の妻として社交界での人脈作りに尽力した。少しずつ大きくなっていく彼女を蝕む病巣のことも隠して。 「気付いた時には彼女はベッドでの生活を余儀なくされた。最期にもう一度見せてやりたいと思っていたオペラも見せてやれないまま、彼女は旅立ってしまった」  その悔恨を心の棘として背負い続けていたセドリック卿はある日、街の中で新婚当初……まだゆったりとした時間を過ごせていたころの妻とよく似た少年と出会った。

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