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幸福の幕開け

(俺の事だ……)  セドリック卿はまるで妻に罪滅ぼしをするようにアンリに会いに行っては、お菓子や宝石を贈った。だが同時に、全くの他人であるアンリを巻き込んでいることに気が咎めてもいた。 「そんなことないよ。だってセドリック卿は、俺の事、ちゃんと俺として扱ってくれてたじゃないか」  確かに奥さんを重ねていたかもしれない。だけど、それだったら紳士服や男性向けのアクセサリーを贈ったりはしない。必死に訴えるアンリにありがとう、と小さく呟いて、セドリック卿は続けた。 「……実はずっと、歌劇に誘う勇気は出なかったんだ。やはり妻を重ねているようにも思えてね。だが、そう考える一方で、君が妻と違ってオペラに興味を示してくれなかったらどうしようかと、身勝手な不安も抱えていた。……結局、君は妻と同じように喜んでくれたがね」  瞬間、セドリック卿は天啓に打たれた気分になったのだという。 「きっとこれは、妻からのメッセージだ。妻の願いなのだとね。そして、エティエンヌから君と彼の関係を聞いて、朧気だった直感が確信に変わったよ」  彼とはリュドヴィックの事だ。客の情報を漏洩するのはタブーだというのに。まあ、リュドヴィックは厳密には客とは違うのかもしれないが。それでもダブルスタンダードを咎める視線を店主に送るが、向こうは予測していたらしく、すっと目を逸らした。 「アンリ」  静かに呼びかけられ、アンリは視線を戻した。 「僕の人生は残り少ないはずだ。それでもいつまでも妻の所へ行けないのは、何かやるべきことが残っているからなのだろう。だから僕は君に、妻の願いを託したい。そのための手伝いをしたいと思ったんだ」  これもまた君に妻を重ねているのかもしれないが。そう付け足すので、アンリはかぶりを振った。いつから涙が流れていたのか。また濡れていた頬にぶつかる風が冷たい。 「アンリ。君さえよければ、僕の養子になってくれないか。そして、舞台の上で思いきり歌ってほしい。妻がどれほど望んでも叶えられなかった願いを、君に託したいんだ」  セドリック卿の真摯な懇願に、アンリは何も答えらなかった。滂沱と流れる涙と嗚咽が、アンリの邪魔をする。  その時、アンリの肩に優しく手が置かれた。リュドヴィックだ。 「……はい」  リュドヴィックのぬくもりに背中を押されるようにアンリは頷いた。 「よろしくお願いします」  深く深く、首を垂れる。 「うん。こちらこそよろしく。アンリ」  次いでセドリック卿はリュドヴィックを見た。 「アンリの事を一人前のオペラ歌手に育ててやってください。どうか、よろしくお願いします」 「もちろん。彼はきっと歌劇場のスターになりますよ。私が保証します」  養子となったアンリが、セドリック卿からリュドヴィックに託される。リュドヴィックが快く承諾するのを、泣きすぎてぼんやりした頭で夢見心地になって聞いていると、目の前に高そうなレースのハンカチが差し出された。 「よかったわね。アンリ」 「う……」  エティエンヌの母のようなほほえみに、救ってくれた時の微笑が重なり、また涙の量が増えた。どうしよう。今まで溜め込んできた分を流しているのだとしても、そろそろ枯れてしまうかもしれない。潤いが無くなって肌がぼろぼろになってしまったらどうしよう。 「なんでさらに泣くのよ。もう。あんたがそんなに泣き虫だなんて知らなかったわ」  ぽんぽん、とあやすように頭を軽く叩く。 「でも、でも俺……、エティエンヌにまだ、恩返し、が、出来てない」 「何言ってるの。お釣りがくるくらいよ」  エティエンヌはまるで小さい子に話しかけるように、アンリの前にしゃがみ込んだ。 「私はね。現役時代、仲間たちが惨い末路を遂げるところを、この目で何度も見てきたの。だから私は、男娼だからといって理不尽な思いをしないで済んで、そしていつかは幸せを掴ませてあげられるようになりたい。だから店を始めたんだって、前に話したでしょう?」  確かに聞いた。そんなエティエンヌならば信頼できると思えたのを憶えている。 「貴方はそんな私の願いを叶えてくれたじゃない。恩を感じてくれていたのなら、これ以上の恩返しはないのよ」  びしょ濡れの頬を厭うことなく、それどころか、本当に血のつながった我が子にするように愛おしそうに撫でる。 「それに今生の別れってわけじゃないわ。私もあんたが立つお芝居を見に行くから、私を感動させるくらいの歌声を聞かせなさい。手抜きなんかしたら、承知しないわよ」  今まさに優しく撫でてくれた手で握りこぶしをつくって脅してくる。アンリは鼻をすすって、ふんと顎を反らした。 「言われなくたって、そのつもりだよ。厚化粧はしてこない方がいいぜ。どろどろのモンスターみたいになっちゃうからな」 「なっまいき。でも、その方があんたらしいわね」  ようやく普段の調子の取り戻したアンリの鼻を指先でつついて、エティエンヌは満足そうに笑った。

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