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それからのアンリ

 それからしばらくアンリは多忙な日々を送ることになった。  正式に歌劇団に仲間入りし、他の団員達にも紹介された翌日から、体力作りと厳しいレッスンが始まったのだ。  そうして初めて、歌劇がただ気持ちよく歌うだけではなく、体力を激しく消耗するものなのだと知った。  客席の隅っこまで届くよう声を張って歌いながら、舞台の上を駆けまわったりするのだ。想像以上に疲労が溜まる。  だが何より辛かったのは、仰向けに寝転んだ状態で歌う訓練だった。この姿勢だと驚くほど声が出ないのだ。ほとんど意地で声を出すから、しばらくは腹筋の筋肉痛に苛まれ、身体はくたくたなのになかなか寝付けない日々が続いている。  レッスンだけに気を取られてはいられない。  まだ舞台に立てないアンリは、他の下働きの子たちと一緒に出演者たちにタオルやら次の衣装やら水やらを配らなくちゃいけない。でもこういう目立たない努力のおかげで、先輩方も他の団員達同様、新米のアンリを可愛がってくれた。  そして一番意外だったのが、普段はにこにことして温和そうなリュドヴィックが、一度座長として指示を出し始めると、別人のように厳しくなることだった。  口調自体は普段と変わらないのだが、決して妥協を許しはしない。それは新米のアンリに対しても同じだった。  まるで二重人格のような変貌ぶりに、衝撃を受けたアンリだが……。 (皆を引っ張ってる姿がかっこいいなんて思っちゃうんだから、恋は盲目だよな……)  ちなみにあの日、取り乱してリュドヴィックに告白をしてしまったのだが、あの一件が蒸し返されることは今のところない。アンリにとってはありがたいような、でも、もやもやするような複雑な心境である。 (いや、ダメだダメだ。今は仕事に集中しないと)  暗幕が下ろされ、そろって辞儀をしていた歌手たちが戻ってくる。アンリはスポットライトに照らされ汗だくの彼らに手早くタオルを配っていく。 「お疲れ様」  最後にリュドヴィックにタオルを渡した。 「ありがとう」  今日はアンリも見た人魚姫の歌劇の千秋楽だ。  怪我をしたリュドヴィックは、今更代役を立てるわけにもいかないと言って、医者の説得を押し切り、なんと翌日から舞台に立った。何度も傷に圧をかけるシーンがあり、最初のうちはその度出血していたが、さすがにもう圧迫したくらいで傷口が開くことはなくなっている。 「とりあえず、傷見せて。包帯換えよう」  それでもアンリは心配で、いつもポケットに包帯とガーゼを忍ばせていた。 「心配性だな。もう塞がったよ」 「でも、念のため」  アンリがなおも食い下がると、リュドヴィックはなぜか嬉しそうに目を細めた。 「じゃあ、お願いしようかな」 「任せろ!」  そうして二人で控室に戻ろうとするのだが、背後から小鳥のさえずりのようにきれいな笑い声が聞こえ、立ち止まった。 「愛されてるわね。お兄さま」  振り向いた先に居たのは、主演の人魚姫役を務めたアイリーンだった。  今回のみでなく、美しく涼やかでありながら力強いソプラノボイスが武器の彼女が主役になることは多い。彼女のパトロンも多く居て、楽屋には山のような贈り物と花束が窒息しそうなほど運ばれてくるのだ。 「子供のころから、助けてくれた人魚姫を見つけ出すって何度も豪語してたけど、まさか本当に有言実行しちゃうなんて。その執念。我が兄ながらちょっと怖いわ」 「愛の力だよ。アイリーン」 「愛っておっかないわね」  さして冗談ではない風に言いながら、アイリーンは二人のそばを通り過ぎる。その途中、アンリにそっと耳打ちした。 「お兄さまはずっと貴方に執着していたから、もう二度と離してはもらえないと思うけど、何かあったら私に相談していいのよ」 「アイリーン?」 「あら、お兄さまにも聞こえちゃった? それじゃ、馬に蹴られるまえに退散しましょ。じゃあね、アンリ」 「あっ、お疲れ様です!」  どうやら聞こえていたらしいリュドヴィックに咎められると、アイリーンは逃げるように去って行った。アンリは後輩としてその姿が見えなくなるまで頭を下げる。こういう細かい作法もリュドヴィックに教えてもらった。 「やれやれ。すまないね。アンリ。妹が変なことをいって」 「う、ううん。ていうか、ずっと俺の事覚えてたわけだし、あながち間違っていないような気もする」  きっぱり言い放つと、否定できなかったのかリュドヴィックは苦笑した。 「そうだ。アンリ。今夜夕食を終えたら私の部屋に来てくれないか? 話したいことがあるんだ」  その誘いに、どうしても気持ちが浮ついてしまう。 「部屋? うん。いいけど」  惚けたふりをして応じながらも、もしや告白の返事がもらえるのではないかとかすかに期待してしまうアンリだった。  千秋楽の日は楽屋で軽い打ち上げをしてから、各々の自宅に帰ることになっている。  リュドヴィック率いる歌劇団は移動しているわけではないので、団員たちの自宅は全員徒歩圏内にあり、田舎から出てきてまだ稼ぎの少ない若手たちは家賃を折半して、同じ家で暮らしている。  本来ならばアンリもそうすべきなのだが、心配性のリュドヴィックがアンリを自宅に住まわせた。養父セドリック卿からもちゃっかり同意を得ていたらしい。一体いつ話をつけたのか。のほほんとしているようで抜かりがない。  ちなみに元は一緒に住んでいたはずの妹アイリーンは、荷物の置き場がないからと言って隣家を借りて一人暮らしをしている。衣装に大量の贈り物。人気歌手の家はどうしても物であふれてしまうのだそうだ。  

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