19 / 21

泡となっては終わらせない上

 先にお風呂を頂いて、約束通りリュドヴィックの部屋で待つ。  台本や資料になる書物の類は基本的に隣の書斎に詰め込まれているのだが、収まりきらないものと、今読み進めている数冊が部屋の隅に積み重なっている。  他に夜着のはいった洋服ダンスと水差しを置くための化粧台。そこそこ物は多いのに、きちんと整頓されていた。  アンリが積み重ねたならばその辺に放ったように見えるだろう本の山も、積み方ひとつでインテリアのように見栄えが良くなるらしい。部屋の隅にホコリの綿毛が転がっていることもないし、清潔感があって落ち着く。これが本来の寝室の内装なのかもしれない。  入浴しているリュドヴィックが戻るまで、そわそわと落ち着かない気持ちを少しでも整理しようと、こうして部屋の中など見回してみるが、あんまり効果はなかった。  先にベッドに腰掛けて待つ。店では日に何度もしてきた行為なのに、ここがプライベートの空間で、待っている相手が想い人となると、こうも気分的に違うのかと内心驚いている。 (店か。みんな、元気にしてるかな……)  アンリが店を出る夜には、スタッフのみで盛大な送別会という名のパーティーを開いてもらった。  男娼仲間たちはご馳走が食べられてラッキーだとか、これで自分が一番にのしあがれるとか好き勝手なことを言っていた。  その方がアンリとしても気楽だったのに、お酒が入ってくるとだんだんしんみりした空気になってしまってダメだった。アンリまでもが、また子供みたいに泣いてしまう羽目になったのだ。でもあれはもらい泣きなので、アンリは悪くない。  一方、アンリをひいきにしてきた客たちはアンリの水揚げに絶望したが、歌劇団に所属すると知ると今後も応援してくれると約束してくれた。まだ舞台に立ってもいないというのに、アンリにはもう何人ものパトロン候補がいるのだ。  彼らは皆裕福だから、約束を守って歌劇も見に来てくれることだろう。彼らに恥じない歌手として、今後も精進しなくては。 「アンリ、ただいま」  仲間や客たちの顔を思い浮かべてようやく落ち着きかけたところに、リュドヴィックが帰ってきて、また心臓がうるさくなった。 「お、おかえり」  腹立たしいことに目も合わせられない。まるで生娘みたいにベッドのすみっこでちっちゃくなって、そわそわもじもじしてしまう。そんなかまととぶる自分に苛立つのだが、リュドヴィックは気にした素振りもなく、隣に腰掛けてきた。 (な、なんか……近くない?)  今にも肩が触れ合いそうなほどの距離だ。触れてはいないが風呂上がりのぬくもりが伝わってくるくらいには隙間がない。 (い、いやいや、こんなことで何を過剰に反応してるんだか)  客の中にだって、顔を合わせるなりがっついてくるタイプはいた。それと似たようなものだ。と逐一過去にあった事例をあてはめないと冷静でいられる自信がなかった。 「アンリ。私は君に謝らなくてはならないことがあるんだ」 「え……?」  不穏な切り出しに、違う意味で心臓が鳴った。これは、良くない返事を告げる際の前置きではないだろうか。 「私は以前、君の気持ちを試すような真似をしたんだ」 「……どういう、意味?」  もしも断るつもりならばこのままなあなあにして、告白自体をなかったことにしてほしいくらいだ。だが誠実なリュドヴィックがそんな不義理な真似をするとは思えないのも事実。ならば傷つく覚悟をしなければ、と身構えていた矢先に飛び出したのがこの言葉。  記憶にないので首をかしげるしかないアンリに、リュドヴィックがかつてアンリが抱いた違和感の正体を教えてくれた。 「もう覚えていないかもしれないが、以前、私は君に歌劇のワンフレーズを聞いてもらっただろう? だけど実際の台本に、そんなセリフはなかったんだ」 「あっ、あれって、セリフが変更になったとかじゃなかったんだ?」  リュドヴィックが聞かせてくれたセリフが結局終幕まで登場しなかったことに、ずっと違和感を覚えていたのだ。当時は変更になったのだろうと勝手に推測したが、どうやらそうではなく、最初から存在しなかったらしい。 「じゃあ、どうして、俺に嘘を吐いたの?」  あくまでも疑問の形で問うと、リュドヴィックは気まずそうに目を泳がせた。 「私も大人になって、だいぶ根性だとか、積極性、主体性と呼べるものが身についてきたとは思うけれど、根底のところは臆病なままでね。これはかつて迷子になった私を助けてくれた君ならば分かるだろう?」  つい、首肯してしまった。だってかつてのリュドヴィックは確かにすぐ泣く子だった。あんな一時話しただけのアンリですら、泣き虫の弱虫だという印象を抱いたほどだ。  そんなアンリの正直すぎる反応に苦笑して、リュドヴィックは続けた。 「私の所為で酷い怪我を負った君を見て、私は決断を迫られていると考えた。だけどどうしても諦めきれなくて……だから、あの日、私は君を試したんだ。狡い方法で君の気持ちを確かめようとした」  アンリがリュドヴィックの口説き文句に嫌悪しているようなら、もうスカウトを諦めようと考えていたのだと言う。 「だけど君が可愛らしく赤くなるから、もしかして脈があるのではと期待した」 「か、かわ……、っていうか、赤くなってた?」  聞き飽きているはずのフレーズも、リュドヴィックの声だととてつもない破壊力をもたらす。 「うん。ここまで真っ赤だったよ」 「あ……っ」  急に伸びてきた手で耳たぶを擽られる。くすぐったい感覚に、背中がぞくぞくする。幸いすぐに離してもらえたが、もとが男娼、しばらく色事から遠のいていたこともあって反応が過敏になっていた。 (どうにか勃ちはしなかったけど……)  急な身体的スキンシップは遠慮願いたい。触るよと一言断りを入れてくれれば、アンリだって心の準備が出来るのに。  でも仮にもプロがこの程度で感じてしまったことが情けなくて、もう勝手に声が漏れないよう両手で口を塞いでおくことにした。 「だけど、数日前、君がセドリック卿の養子になるという日に、まっすぐ告白する君の姿を見て、私は自分の狡賢さを恥じたんだ」  再び両手がアンリに触れる。今度は口を塞いでいる両手を掴まれてしまった。  優しく口元からアンリの両手が離されていく。引っ張られるがまま上体を軽くひねると、こちらを真剣に見つめているリュドヴィックと目が合ってしまった。 「……っ」  みるみる顔が熱くなるのに一度視線が絡み合ってしまったら、もう拒むことは出来なかった。  心臓の音がどんどん大きく、やかましくなっていく。  やめてほしい。今ちょうど、リュドヴィックが重要なことを、おそらく、アンリがもっとも欲しているセリフをくれようとしているのだから、後生だから、あと少しだけ、静かにしていてほしい。 「アンリ。私も君が好きだ。幼いころ、私を助けて、清らかな歌を聞かせてくれたあの日から、ずっと想いつづけてきた」 「そ、そんな前から?」 「そうだよ。アイリーンの言う通り、私は執念深いんだ」  なるほど。妹ならば健在だったころの両親と一緒にリュドヴィックの初恋の話を聞かされていてもおかしくない。だが、その事実は兄妹ともに出来れば胸に秘めたままでいて欲しかった。  次から、どんな顔をしてアイリーンに会えばよいのか分からなくなる。 「だけど君は、あの後すぐにどこかへ行ってしまって会えなくなった。両親に話したら……まあ、子供相手だからオブラートに包んだのかもしれないが、海に帰ってしまったと言われてね」 「あ……」  アンリは孤児だ。家もなければ親もない。浮浪児の大半が送る末路を遠回しに告げたのだろう。まさか、お前の初恋の相手は野垂れ死にした、とは言えまい。 「だけどずっと諦められなくて、両親にいい人がいると紹介されてもすべて断ってしまうくらい、君にずっと恋焦がれていた」  片手を引き寄せられ、手首にキスをされる。ジンクスとかの話題が大好きな男娼仲間から、手首へのキスの意味を聞かされていたアンリは、ついついリュドヴィックの心理を勝手に当てはめてしまう。でもたぶん、間違えてはいないのだろう。 「愛してるよ。アンリ。どうか、私だけのものになってほしい」  だってリュドヴィックはこんなにも、アンリを情熱的に求めてくれている。

ともだちにシェアしよう!