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第2話
明けて月曜。諒は出社していた。仕事は通信端末会社の社内SEだ。
遅くなった昼休み、コンビニでも行くかと廊下に出たとき、談笑しながら歩いてくる一団が目に入った。どこかの部署の会議が終わったところなのだろう。
「今度ぜひ一杯やりたいね。倉吉くんいい店知ってそうだし、任せていいかな?」
上司らしき男が、かたわらの部下に声をかけている。
――ん?
なんだかどこかで見た顔だ。
面を上げると、瞬間、ばちっと目が合った。
「き、昨日の……!」
諒はびしいぃい! と倉吉を指さすと、どこの部か知らないがどこかの部長らしき男に向かって吠え立てた。
「この人、超味オンチですよ!!!! こんな人に店選びなんて――」
「部長、SEさんにお願いしていた案件がありまして、これで失礼します。――ちょっとこい!!」
ちょっと来い、の部分は諒にだけ聞こえるように告げ、倉吉は諒を給湯室へ引きずり込んだ。
「いてっ、噛むな、狂犬かおまえは」
「美山です!」
「じゃあ美山。なんでおまえがここに?」
「ばーちゃんの店第四日曜だけ手伝ってるんです! 兼業禁止されてないし、別に服務規程違反じゃないですから!」
「……なるほど、身内の店か」
倉吉が納得しているうちに、諒は倉吉の腕から逃れた。
「飲食店に対する態度で本当の人間性がわかるって言いますよね。毎月違う女性を連れてきてるようなチャラい男にまずいとか言われる筋合いないです」
言い募ると、倉吉の顔はさっと曇った。
「あのスペシャリティコーヒーは、ばーちゃんが吟味して仕入れてるんです!」
諒はきゃんきゃんと吠えたてた。言い返してきたらさらに返り討ちにしてやろうと身構える。が、意外なことに倉吉はその美貌を曇らせて告げた。
「悪かった。……今日の帰り、一杯つきあえよ」
一杯付き合えよ、というから、てっきり酒だと思ったら、連れて行かれたのはカフェだった。倉庫のような、コンクリート打ちっぱなしに白を基調とした内装が若者に人気の店だ。
運ばれてきたコーヒーに口をつけ、倉吉は瞑目する。
「……甘みが強い。それに透明感がある。この感じからいうとイエローハニーだな。コスタリカの豆だ」
おまえも飲めよ、と勧められ、呆気にとられながらも諒はマグに口をつけた。確かに、倉吉の言った通りの風味がある。
「驚いたか? 俺も、コーヒーの味はわかるほうだ。好きだからな」
「じゃあ、なんでうちのコーヒーをまずいなんて」
訊ねると、倉吉の表情から、さっきまでの得意げな色が消えた。
「……だ」
「はい?」
柄にもなく小さな声は聞き取れない。
「……天性なんだ。だいたい第四週くらいに、味覚が鈍くなって、なにを喰っても味がよくわからない。だからまずいと」
「そう……なんですか……?」
最初の性交で失われるという微妙な性質上、天性についてはよほど親しい間柄でなければ訊ねない。だから全部で何種類の症例があるのか、誰も把握していない。
おれと逆の人もいて不思議じゃないか――諒は頭をめぐらせ、はっと気がついた。
「え、ってことは倉吉さんは、ど」
「しっ……!」
口元を覆われた。がたいのいい男がカウンター席でそんなことをしていれば目立つ。目で必死に「放して」と訴えると「ど……以下を口にするな」と目で返された。かくかく、と無言で頷いて、やっと解放される。
この自信たっぷりに見える色男が、ど……むにゃむにゃ?
「華道教室にうちの母が通ってる。で、それを送っていくとだいたい『ちょうど知り合いの娘さんが来てるから、お茶でもしてったら』と言われるんだ」
「それってつまり……お見合いみたいな……」
倉吉は弱り切った表情で頷いた。
「中・高校生の頃から、この天性がデートに当たったりすると、苦労させられてきた」
なにしろ倉吉は顔がいい。当然モテた。彼女たちは競って自分おすすめのカフェなどに倉吉を連れて行ってくれる。
美味しいでしょう、センスがいいでしょう。こんなお店を知ってる私、どう? と。
だがしかし、なにを口にしても味を感じない倉吉にとってそれは拷問のようなものだった。
「味がしないパンケーキっていうのはな、美山。こう……スポンジにどろっとした洗剤がかかってるのを食ってるみたいなもんなんだよ……」
「……想像するだに恐ろしい……」
そんなこんなで倉吉はデート恐怖症になった。
やがて「倉吉くんはどこぞのマダームと高級料理ばかり食べているのだ」などという噂が一人歩きし始めた。
あとはもう、諒と同じ道だ。この苦しみをわかち合う相手を見つけられないまま、この歳まで未経験できてしまった。
見合い相手ならなおさら、初対面でそんなことを言えるわけもない。
気づいたら諒は、そんな倉吉の手を両手で握りしめていた。
「わかります!!!!」
それから諒は、自分は倉吉とは逆に味覚が鋭敏になること、そのせいでやはり不遇をかこってきたことなどを、まくし立てていた。
倉吉の顔にみるみる驚きが広がり――やがて、喜びに変わった。
「マジか」
エリート然とした顔から素の呟きがこぼれ落ちたとき、諒の胸はなんだか満たされていた。
同じ苦しみを知る奴と知り合えた喜びはもちろんある。
が、なにかそれ以上の感覚があったような気がする。
体のどこか奥深いところにぽっかり空いていた穴にぴったりはまる、大切なピースが見つかったかのような。
力任せに握ってしまっていたことに気づき、諒は手を放した。
「えっと、でもおれはまあ、美味しいものは味わえますし、ばーちゃんの手伝いにも役立つけど、倉吉さんはつらいですよね」
洗剤のかかったスポンジなんて、死んでも口にしたくない。だいたいきつめに当たってしまったのは、いかにも男らしくエリート然とした倉吉に男として嫉妬めいたものがあったからだ。
「どんな人にも事情があるものよ」――祖母にいつもそう言われているというのに。
諒は一旦スツールを下りると、腰を折った。
「そうとも知らずに怒ったりして……すみませんでした」
「いや、まあ、マイナスばっかでもなかったよ。――俺の場合は」
「え?」
「いや。顔上げてくれ。今度天性じゃないときにお祖母様の店にお邪魔して、ちゃんと味わうよ」
「じゃあ予定合せておれも行きます。とびっきりのいれますよ」
諒がそう告げると、倉吉は「頼むよ」と嬉しそうに目を細めた。
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