4 / 36

第4話

「逃げるな、はじめ」 「っ……まだ改名してない」 「べつにいいだろ。どうせ改名する」 はじめ。 これがおれの名前。 司郎は過去で終わった。 「はじめ、漢字どうしよう。始めるとか?」 「安直だな。はじめっつったらこれじゃねえの」 志野はスマホに文字を打った。 『肇』 なんだこの字。 難しすぎる。 「なにこれ」 「はじめ」 「こんな漢字存在するの」 「実際出てきてるだろ。意味も同じだ」 「なら肇……これで、いい」 「お前の意思はないのか」 「志野と一緒に決めたから、それでいい」 「……あーそう」 いつの間にか涙も止まっている。 「もう寝ろよ」 「志野は寝るの」 「ああ、眠い」 そう言うなり目を閉じた。 おれの首筋をなでる手に、ドクンと心臓が動く。 優しくしなくていいのに。 志野との約束は守れなかった。 二度とするなと言われた自傷行為をおれはまたした。 傷ついた腕を強く引っかき、血をにじませる。 当然だが傷口をえぐるのは涙が出るほど痛い。 そうしていないと怖いからだ。 朝のことだった。 目が覚めた志野はおれを見るなり眉をゆがめた。 志野が優しくするからだ。 そう言ってやれたらいいのに、彼の目を見るとなぜか言えなくなる。 「……はぁ。肇、こっちにこい」 「おれのこと、殴りたいんじゃないの」 「いいからこい」 大人しくベッドに近づけば、志野はミニテーブルから消毒とガーゼを取った。 「座れ」 「……なんでキレないんだよ。あんた変だ」 「一番おかしいのはお前だ、朝からなにやってんだ」 「遊んでる」 「ガキか。いつか死ぬぞ、悪さできないように縛りつけてやろうか」 「そういうプレイも好き」 「んなこと言ってない、アホ」 久しぶりだ、こんな男は。 男だけじゃない。 おれに寄ってくる人間は必ずドス黒い下心があった。 みんな、見返りしか求めちゃいない。 志野の他にひとり、おれにやたら構ってくる男がいた。 最後にあったのはたしか中学で、おれが中学を変えるまであの男は話しかけてきた。 名前は……亮雅。 松本亮雅という男だった。 学年のなかでも冷静沈着で騒がしいタイプではなかったが、そのクセかなりモテていた。 男からは尊敬され、女からは恋愛対象として告白される姿をよく目撃した。 いわゆるムードメーカーの1人だったかもしれない。 いつも谷口という同級生と行動していて、谷口の話に耳を傾ける聞き役の印象が強い。 亮雅に出会ったのはまだ6歳の頃。 公園のトンネルに1人隠れていたおれに、そいつは声をかけてきた。 「__なんでこんなとこにずっといんの」 「……だれ?」 「リョウガ。朝からいるじゃん、おまえ」 亮雅は口調が生意気な子どもだった。 でもおれはふしぎと嫌いじゃなかった。 サッカーボールを両手で抱え、顔も足もぼろぼろに汚れている。 「きみも、あさからいるの?」 「うん。俺はみんなとサッカーしてるけど、おまえずっとここいる」 「……ぼく、ともだちいない。みんなぼくがキライなんだ」 「なんで? 見るからによわそうなのに」 「え……」 「ヒマならいっしょにサッカーしよ」 「できない」 「きらいなの」 「ううん……はしると、ここ苦しいから」 おれは幼少期、気管支がひどく弱かった。 持久走やサッカーのような走るスポーツを無理してやると、1日中咳と息苦しさに襲われる。 だから体育はいつも休みだった。 「くるしい?」 「うん、ゲホゲホってなるの。だから、みんなにバカにされる」 「ふーん、意味わかんねー。バカにするとこないじゃん。サッカーできないなら虫とりしようよ」 「なんで? おれとあそんでも楽しくないよ」 「そんなのおまえが決めることじゃないしっ、ナマエは?」 「しろう」 「シロウか〜、ヘンなナマエ。よし、あそびに行くぞシロー」 「わっ」 おれは強引に連れ出され、夕日が落ちるまで亮雅に付き合わされた。 口調も言葉も生意気なのに亮雅は弱いおれにも優しかった。 初めて誰かと虫とりをして、カブトムシに触れ、なぜだかとても楽しかったのを覚えている。

ともだちにシェアしよう!