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第33話

「肇、ここにお前のサインがいるから書いてくれ」 うわ、出た。 おれの苦手なことは字を書く動作だ。 通信制の中学にしてからまともに字を書かなかったうえに、高卒試験を受けるためにペンをにぎったのが最高記録だろう。 営業で必要な書類の多くがパソコン入力され、印鑑1つで取引が済むため字を書く機会が減っていく。 おれの字を書くぎこちなさは志野に笑われたレベルだ。 「はじめって、ひらがなにすればよかった」 「一気に子どもっぽいな」 「あ〜あ〜、ブレる〜」 「わざと手をふるわせるな。難しく書こうとするからだろ、ゆっくり書けばいい」 「あ、やばい。志野って書きそうだった」 「お前の脳みそに俺以外の情報も入れろ」 「あはは」 「あははじゃねえよ。書き終わったら行くぞ」 「あとどれくらい?」 「30分くらいで着く」 「書けた!」 「……ホスト数年やっててお前以上の不思議ちゃん見たことないわ」 「え?」 「なんでもない、行くか」 車を発進させる志野を一瞥し、クッションを抱きしめて窓に体をあずけた。 おれは高速道路というものを今日初めて知った。 通るためにはお金がいるが、その代わりに一般的なルートよりも早く目的地に到着できる。 また新たな発見だ。 「着いたぞ」 「まじ?」 ぼんやりとしているあいだに海に着いたようだ。 駐車場はガラ空きで、さすがに真冬にくる人はいないと実感する。 「はーしろっ」 「すべって転けんぞー」 「志野虫みの虫〜っ」 坂を小走りし、看板が示す方にある階段を飛ばし飛ばしで駆け下りる。 砂浜に足を踏み入れたとき、サクッといい音がした。 顔をあげると目の前には一面の海が広がっていた。 本で見たよりもずっと輝いている水面に釘付けになる。 これが……海。 「さっむ! やっぱ海までくると病的に気温下がるな……」 「…………」 「肇? 生きてるか」 「………」 「どうだ、初めての海は……って、泣くほどよかったか」 え? おれ、泣いてる? かすかに頬が温かい。 視界も歪んでいくし、志野が変な顔をしているように見えた。 いつものように笑おうとしたが、なぜだかそれができない。 「し、の……っ…………おれが見て、いいの」 志野の顔がぐしゃぐしゃに歪んで見えない。 だが、笑っているような気がした。 「……当たり前だっつの。きれいだろ」 「志野が……ぐしゃぐしゃになった」 「俺じゃなくてお前な。意味わかんねーとこで笑う肇より、そっちの方が素直でいい」 初めて生で見た海はどこまでも果てしなく続いていて、飲み込まれそうだと思った。 知りたかった世界の広さは想像を超えた。 「懐かしいもんだな」 「……?」 「高校のときに自転車でよく通ったよ。腹が立つことがあるたびにここまで飛ばして一輝たちと叫んだ。ババアくたばれとか絶対見返してやるとか、散々ひでーこと言ってたよ」 「……なんで、海にきて叫ぶの? 家で言えないから?」 「なんかよくわかんねえけどスッキリするんだよ。叫んでいい景色見てたら、腹立ってたこともどうでもよくなって立ち直れる」 志野の言うとおりかもしれない。 いま思うと子どもを守ったあの日、男の名前を大声で叫んだだけで清々しかった。 あれは子どもを守るというよりも志野を巻き込みたくない一心で無意識に出た嘘だったのに、男は捕まり子どもの親には何度も頭を下げられ。 自分が英雄にでもなったような気分だった。

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