34 / 36

第34話

「志野がやばい人じゃなくて、よかった……」 「いきなりの言葉がそれかよ」 「嬉しいって意味だから」 拭っても拭っても涙は止まらない。 ずっと笑顔だけを見せてきたおれの違和感に、志野はいつも一番に気づいていた。 独りになるのが怖かったのも、誰かに捨てられる不安も、ぜんぶ知っている。 おれの手をにぎって歩き始めた志野のあとをついて歩く。 砂の音は好きだ。 波の音も、風の音も心地いい。 彼といるとすべてを忘れてしまいたくなる。 あの日体験した地獄も、孤独も。 「____ここがオレの家だ。風呂もトイレも好きに使っていいぞ〜」 おれが覚えている記憶のなかでもっとも地獄を感じたのは、40代の男との出会いだ。 一見すると男は人当たりのよさげな顔をしていたが、それは見かけ倒しだとおれにはわかっていた。 男の家は7畳ほどの部屋が2つあり、トイレと風呂は別になっているがとても広いとは言えない間取りだ。 ローテーブルの上にも下にもカップ麺やコンビニの弁当箱が散乱していて、汚い。 「……ねーお兄さん、ここ広く使いたいから先に片づけてもいい?」 汚い部屋を片づけるのは慣れっこだった。 うちがそうだったから。 だが、ゴミを掃除しようとした途端に男は鬼の形相に変わる。 「お前はオレの部屋が汚いって言いてえのかッ!?」 「え……」 いや、どう見ても汚いでしょ…… 男には部屋を汚している自覚がなかった。 よくあることだ。 片づけが苦手な人間は、ゴミとの生活にさえ違和感を覚えなくなっていく。 おれの親も片づけが嫌いだった。 カップ麺を食べたあとすぐに洗って捨てれば溜まりはしないのに、その動作ができない。 そして自分が片づけができないという自覚はなかった。 「ちがうよ、お兄さん。ここにものがあるとセックスしづらいでしょ? だから退けるだけだよ」 そう言うと男に胸ぐらをつかまれ、力いっぱい頬を叩かれた。 「お前も! あのクソ野郎と同じことを言うのか! しばらく置いてやるんだッ、誰がこの家の主か忘れるなよ!」 「……はは、ごめんごめん。わかったよ」 結局、おれはゴミ溜めの上で男に犯された。 だがそれはまだいい方だ。 それなりに金は持っているはずなのに男はパチンコに明け暮れているだけのクズだった。 出会ったのは冬で、暖房が足元を温める小型のものしかない。 だが、男はおれに言った。 「お前は暖房を使うなよ。風呂も湯は使うな」 「あーうん」 貯まった金で買っていた下着や服はあったが、風呂がなにより億劫だ。 いっそ入らなくていいと思っていたおれに男は「汚いから入れ」と怒鳴ってきた。 「っ……つめた、!」 この寒い時期の水は冷えきっている。 少しひねれば湯が出るのに、金をもらっている以上なにも抵抗できない。 「お前、湯は使ってないよな!?」 「使ってないよ」 「水道代がもったいないだろ! ちんたらするな!」 「っ!」 男が乱暴にとったシャワーの冷水が頭からかけられる。 全身がふるえて生きた心地はしない。 だが、冷たいとかやめてほしいとは絶対に言わなかった。 ふるえの止まらないおれに暖房が恵まれるわけもなく、寒い部屋でタオルを被る。 泣けたらどんなによかっただろう。 人並みに嫌だと言えたら。 おれには、それを伝えていいのかがわからなかった。 「これ着てみろ、アヤ」 おれは当時、適当につけたニックネームを名乗っていた。 機嫌がよい日は変な衣装をおれに着せようとする。 スカートに女用の下着。 女がいいのか、男に女ものを着けさせたいのかわからないが、こんな変わった癖をもっている男には何度も会っている。 「ふへへ、似合うじゃないかぁ」 「そう? ならよかった」 「そこに座って脚を開いてみなさい」 「うん」 「……もっと恥じらいを持てよ。女の子ってのは恥じらいがあるだろ!」 男が怖いのは、突然怒り出したり笑うところだ。 何十もの人格があるのではと思うほどに突然顔つきが変わる。 だから感情が読めない。 だがそれは、おれも同じだったかもしれない。

ともだちにシェアしよう!