30 / 123

─ 29

 トントン。  ピアノの音に紛れて、ノックする音が聞こえた。オレは指を止め「どうぞ」と応えた。ドアの上部には小窓があり、そこから聖愛の制服が見えている。  顔は見えないが、オレはそれが誰だか知っている。  静かにドアが開かれ、予想通りの人物が現れた。 「詩雨、おかえり」 「ただいま」  笑顔を見せながら内心、オレに気づくのに四日もかかったのか、と暗い気持ちになる。 「いつ帰って来た?」 「四日前」 「帰って来たら連絡くれって言ったろ」 「忙しそうだったから」  これはオレの精一杯のイヤミだ。  冬馬は「え?」と怪訝そうな顔をしたが、それは一瞬だけで、その意味を聞こうとはしなかった。  冬馬はドアを閉めて内に入ると、オレの隣に座った。 「あの曲……聴かせて」  ショパンの前奏曲『雨だれ』。初めて彼の前でピアノを弾いた日に聴かせた曲で、冬馬のお気に入りだ。  外はしとしと雨が降っている。それと同じくらい優しく奏でる。  演奏を終え指を止めると、冬馬はオレの手に自分の手を重ねた。 「やっぱり……お前の音が一番好きだ。落ち着く……」  逆にオレの心臓は忙しなく波打つ。 ( 無自覚にそういうことして、そういうこと言うのやめろっ )  冬馬の手がスッと離れた。そして立ち上がる。 「弾いてくれて、ありがとう。── 時間があったら、秘密基地(あそこ)に来いよ」  その胸の内に何があるのか、口許に笑みを浮かべているのに、何処か苦しそうに見えた。 「じゃあ」  冬馬は部屋を出ていった。オレはドアをぼんやりと見つめ、既にいなくなった冬馬に言う。 「……この曲、ほんとは嵐の日に作られたんだよ── 今のオレの心と一緒だ」  オレは再び鍵盤に指を置いた。  ショパンのエチュード。作品十第四番。『Torrent(激流)』という愛称で呼ばれている。  弾き始め、しかし、数小節でつかえて止めた。 「やっぱ、まだ、全然ダメだな」  ふっと小さく息を吐く。  この曲は最近練習し始めたばかりだった。ショパンのエチュードの中でもかなりの難曲だ。でも、それだけではない。脳裏には別のことが浮かび、少しも集中できていなかった。 ( アイツのこと、話さなかったな…… )  指は鍵盤の上に置いたまま、ぼんやりと考える。 ( 何をそんなに落ち着かせることがある?アイツに対する気持ちか?あんなに、苦しそうな顔して…… )  自分の考えたことに落ち込む。今日はもうこれ以上弾く気になれず、ピアノの蓋を閉め、オレは部屋を出た。

ともだちにシェアしよう!