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ふたりの関係があんなに曖昧じゃなかったら── オレはこんなところに来たりはしなかった。こんなところに独り蹲ってなんかいない。
オレの入る隙など少しもないと、はっきりさせてくれていたら。
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高一の夏、オレたちは三人は橘家の別荘へと訪れた。秋穂に出逢う前から、その場所はオレと冬馬のものだった。
しかし、オレが来ることのできなかった三度の夏の間に ── 既にオレの居場所はなくなっていた。
あの沼の畔はもう、冬馬と秋穂、ふたりだけの世界だった。
その日の昼下がり、ぽつぽつ降りだした雨は、あっという間に激しくなる。
沼の畔にいたふたりも、それを眺めていたオレも、急いで館へと走る。それぞれの部屋のバスルームで、びっしょり濡れた身体を温めた。
雨は雷を伴い、更に激しさを増す。
誰もいないリビング。オレは、その中央にあるグランドピアノに触れた。
やがて、冬馬も自室から現れ、ピアノを奏でるオレの傍に立つ。久しぶりに彼にピアノを聴いて貰えたオレは、ひどく幸せな気持ちになった。
まるでふたりしかいなかった頃のように。
冬馬はオレの濡れた髪を拭き、それから優しく手で梳かし、紅い組紐で結ってくれた。
でも ── そこまで、だった。
階段をぎこちなく降りてくる秋穂。彼を見つけ、あっという間にオレの傍から去っていく。雷を怖がる秋穂を抱き寄せ、彼の部屋へと消えていった。
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それから数時間、オレは独りで彼らのいる部屋の外で蹲っている。時間がありすぎて、オレの脳裏にはいろいろな想いが駆け巡っては消えていった。
『嬉しいよ、楽しそうに弾く詩雨が見れて』
そう冬馬は言った。
オレは高等部に進級するのを機に、カンナ音楽院から聖愛学園に籍を移した。そして、カンナ交響楽団もやめた。家族への後ろめたさから、家を出て寮に入った。
それからは冬馬には、今日までピアノを聴かせていなかった。寮の自室にアップライト・ピアノを置き、独り弾いていた。寮は全室防音が利いていて、窓を開けなければ外には漏れない。
独りでピアノに向き合いながら、冬馬の言葉を何度も何度も思い浮かべていた。
『お前の音が好きだ』
『俺はお前のファンだよ』
そして──。
『最近のお前の音はとても苦しそうだ』
その理由を冬馬はどう考えてそう言ったのだろうか。
オレは何にも縛られずにピアノを奏でるのが好きだ。それこそ誰もいない森の奥深くでもいい。ただ独りでずっと弾いていられる。
家族や楽団員たちのように、時間や組まれた演目に縛られ、大勢の人たちに聴かせるのは苦手だ。
弾いていても自分のピアノではないような気さえしてくる。何かの思惑で自分や自分のピアノを使われるのは、もっとも嫌なことだ。
それでも、子どものオレは望まれるままに弾いてきた。そうすることは次第に自分の心との間にひずみを作り、じわりじわりと苦しさが増してくる。
でも、それだけではなかった。本当に苦しかったのは、辛かったのは、ただひとり聴いて欲しかった人に、オレのピアノは必要ではないんじゃないかと思ったからだ。
オレのピアノ ── オレ自身よりも、ずっとずっと大事なものができてしまったと思ったからだ。
冬馬はそのことに気がついていないんだ。たぶん、オレが苦しんでいる理由を思い違えているのだろう。
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