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 会うのは久しぶりだというのに、挨拶もなしに出た言葉は、いきなりそれだった。俺の勢いに夏生が眼を丸くする。 「あの人? ── ああ、カンナちゃんか」 「俺のせい?俺があんなこと言ったから」  その声は静かな廊下に響いた。夏生が慌てて、シッと口の前に人差し指を立てる。 「中に入って話そう」  そう言って部屋へと招き入れる。  ソファーに座って落ち着いて話すなどと悠長なことを言ってはいられない。すぐに答えが欲しかった。  それが伝わったのか、夏生もドアを閉めるとすぐに俺と向き合った。 「ハルのせいじゃないよ。あの言葉ひとつで、今までの自分を捨てる程、簡単なことじゃない」  ゆっくりと、言い聞かせるように話す。 「カンナちゃんは、ずっと悩んでいたんだ。ハル、実はカンナちゃんが練習棟でピアノを弾いているのを聴いてたろ」  俺の中のいろいろな想いを知られそうで、夏生にはそのことを話したことはなかった。 「あの言葉を聞いて解ったよ。元々彼の“音”を知っているって」  やっぱり夏生も知っていたんだ。  そして、あの人は、夏生に悩みを打ち明けている。そう思うと、何故だか胸の奥がもやもやしてきた。 ( 友だちなんだから、仕方ない。俺とは立ち位置が違う ) 「カンナちゃんは、ピアノが好き過ぎて、やっぱり楽団のようなところとは合わないみたいだ」  子どもにも解りやすいように、噛み砕いて説明しているようだが、事はもっと複雑なんだろう。俺に言っても解らないという、その扱いに更にもやもやする。 「まぁ、それだけじゃないけど……」  最後にごにょごにょっと、それは独り言のように零れ落ちた。 「えっ?」 ( それだけじゃない? )  どういうことなのか問い質そうとすると、それよりも先に彼が口を開く。 「確かにあの言葉は、的を得ていたかもなぁ。多少は彼の心を揺さぶったかも。あっ」  誤魔化そうとして言った言葉は、実は失言だった。多少なりともあの言葉が影響をしていると内心思っていたことが解ってしまう。  夏生は慌てて言葉を被せた。 「でも、たぶん、ピアノはやめないよ。僕たちが聴くことは、もしかしたら、もうないかも知れないけど。とにかく、ハルのせいではないよ」  俺は「何か飲む?」という夏生の言葉には、首を横に振り、黙り込んだまま部屋を出た。 『ハルのせいじゃないよ』  重ねて言ったその言葉に、俺は少しも慰められなかった。  俺の言葉に「そうだね」と哀しげに微笑んだあの人の顔が何度も甦る。その度に俺は、深い後悔と軋むような胸の痛みに苛まれた。 **  俺はその日から、ピアノに触れることをやめた。  母に連絡をして、寮の部屋にあるピアノを引き取って貰った。勿論、聖愛の“お教室”もやめた。  そして、あの人 ── カンナシウを眼で追うこともしなくなった。

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