71 / 123

─ 27

 髪からふわりといつもと違う甘い香りがした。いつもと違うけど、前にも嗅いだことのあるような……。  そして、それは、シウさんではない、別な人間の。 ( これは…… )  記憶を辿っているところで、 「詩雨って呼んで、今だけ」  と言う、甘い声が耳に届いた。 ( ああ、やっぱり…… )  俺は別な意味で固まった。もうどうにか平静でいようと努力する必要もないくらいに、心は冷えきっていた。 ( 俺は、あの人の代わりか )  さっき鼻腔をくすぐった甘い香りは、橘オーナーの煙草の香りだ。  今まで一緒にいたのだろうか。 「シウ」  俺は彼を初めて呼び捨てにした。だが、心は少しも踊らない。  ぽつんぽつんと少しずつ落ちてくる黒い雫は、俺の内側にもうかなり溜まり、水面を並み立たせていた。 **    忙しなく、日々が過ぎていく。  あ日のことは、まるで夢だったかのように、シウさんの態度は変わらない。  でも、腕に残った感触と、俺の内に溜まっている黒い雫が、夢ではないのだと感じさせる。  コレクションのリハ、調整、そして本番。  シウさんもそれに付き合い、忙しく動き回る。何かを振りきりたいかのように。  そして、手の空いたふとした瞬間に、ぼんやりと何もないところを見ているのを、俺は何度なく眼にした。  “タチバナ春夏コレクション”は無事終了した。 「おめでとう、ハル。大成功だな」  フィナーレから戻って来た俺を両手を広げ迎え、ハグをする。  初めてのショーの仕事を終えたことで、思いの外興奮していて言葉が出てこない。二度と三度と首を縦に振る。  そんな俺を温かい眼で見、にこりと笑う。 「あとは、お前の写真集だな」  ポンポンと俺の背を優しく叩いた。  しかし、その言葉は、叶うことはなかった──。   **  沖縄那覇空港。  十二月二十一日から一週間の予定を組んでいた撮影。そして、社長ご厚意の休暇。  クリスマスも一緒に過ごせると思い、なんとなく浮き足立っていた。しかし、突然舞い込んできた仕事で、その前に東京に帰ることになってしまった。  二十三日の午後。 「ほんとに、すいません。こっちからお願いしておいて」  昨夜から何度謝ったことか。  それでも、シウさんは全く怒った様子もなく。 「スゴいじゃないか、CMの仕事なんて。写真集発売前の話題作りにもなるしな」  自分のことのように喜んでくれた。  フリーのデザイナーの集団。『オフィス(じゅん)』。  大手のブランドから独立した、柴崎(しばさき)(あおい)が創設した事務所。個人で活動しているデザイナーや、個人店を持っているデザイナーが所属している。  服・ジュエリー・靴・鞄、種類は様々。所属デザイナー同士のコラボイベント。倉庫などで行う、期間限定の店舗。  歴史はまだ浅く、ファッション界の重鎮方は歯牙にもかけない扱いだが、その独自のスタイルは話題を呼んでいる。

ともだちにシェアしよう!