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 これは半分本当で、半分嘘だ。  もし秋穂に出逢わなかったら、詩雨を選ぶ。そう思える程、詩雨のことは大事だった。  しかし、秋穂に出逢わない運命などない、と俺は確信している。  そして、最後に詩雨を見たのは、あの沼。  俺たちを追いかけ、あの沼まで辿り着いた詩雨の姿。  俺が一瞬詩雨を見たように、詩雨も一瞬俺を見た筈だ。  眼が合った ──それなのに。  何故か詩雨は、もしかしたら俺たちがあの水底に沈んでいるのかも知れないと、思っているようなのだ。  これは、俺たちの行方を捜し、ここまで来た優馬が語ったこと。 「詩雨さんは、貴方たちがあの別荘の沼に沈んだと思っているようですよ。いえ、ちょっと違いますか。生きているのか、そうでないのかをはっきりさせたくないようだ、と天音さんが言っていました」 「 体調を崩して、今引き受けている仕事も進んでいないとか」 「僕たちは真実を伝えようと何度も連絡を取ろうとしましたが、まだ伝えられずにいます ── 貴方から連絡をしたらどうですか?」  橘家は、会社を継ぐ弟の優馬と、“Citrus ”を引き受けてくれた姉の華恋がいれば安泰で、俺のことは居場所さえ分かれば、それで良かった。  驚いたことに、石蕗家も秋穂のことはもう諦めたようだと、優馬は言った。これは父からの情報だ。あの男が ── 秋穂の義兄が自分の親に「もう捜すな」と言ったと。  俺たちは、誰にも邪魔されない生活を得た。  だが、詩雨は。  俺は一度だけ、詩雨にエアメールを送った。この街の風景の絵葉書で。言葉もなく、差出人もないエアメール。  これで詩雨は解ってくれる筈だ。送ったのが俺だと。  そして、彼は彼の幸せを見つけて欲しい。そう願った。俺の狡さでずっと苦しめてきた。それなのに、こんなことを願うなんて、身勝手過ぎるか。俺は本当に酷い男だ。 **  俺はデザイン画から眼を離し、ふっと小さく息を吐いた。 「ねえ、冬馬見て」  そんな秋穂の声で、そちらに視線を移す。秋穂は、玄関脇の出窓の花に水をやろうとしていたのか、水の入ったグラスを持ったまま窓の外を見ていた。 「どうした?」  俺は立ち上がって、彼の隣に並んだ。 「ほら、あれ。柵のところ。さっきはなかったように思うんだけど」  言われて、敷地を仕切る柵のところを見ると、何か紅いものがはためいている。 「あれは……」 ( あれは、まさか )  俺は急いで外に飛び出し、柵に駆け寄る。  そこには、紅い組紐が結ばれていた。俺はそれにそっと触れた。 「これって……」  あとから追いかけて来た秋穂が言う。 「ああ、詩雨がいつも髪につけていた……」 ( 初めて会った時に、俺が彼奴に結んでやった…… ) 「やっぱり……詩雨、来たんだ」 「やっぱり?」 「いや、何でもないよ」  さっき呼ばれたような気がしたのは、詩雨の気配を感じたからなのか。そんな、馬鹿なことを考える。 「捜して見る?まだ近くにいるかも」 「いや……いいよ」  俺に会う気があるのなら、最初からこんな風に結んで行ったりはしないだろう。 「それはこのままにしておいて」  ほどこうとしている秋穂の手を、そっと掴んで止めた。 「いいんだ……中に入ろう」  オレは秋穂の肩を抱き、家に入るよう促した。  扉を閉じる前の一瞬だけ、木の柵に結ばれた紅紐を見た。  詩雨の綺麗な髪を結い続けていた、あの紅紐。 ( 詩雨の心は、もう俺から離れたんだな…… )  置いてかれた紐は、それを証明している。  あの紐は、あのまま風雨に曝され色褪せていくか、それとも擦り切れて飛ばされていくか。 ( 詩雨は幸せを掴んだのだろう。俺ではない誰かと…… )  一抹の淋しさと共に、俺は彼の幸せを願った。  そして、いつかまた、再会できることを。  大事な親友として ────。                 Fin.

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