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─ 3
恐る恐る顔を上げると、もう隣にはいなかつた。
ズキッと胸が傷む。
上げた視線は、またピアノの鍵盤へと落ちる。
ふわっと、緩く抱き締めるように、オレの胸の前で組まれた両手。その手は少し震えていた。
遙人は隣からオレの後ろに回っていた。
「何年ぶりてん……だろ。シウさんのピアノの音。初めて聞いた時のように、キラキラしている」
涙ぐんでいるように、その声も震えている。
冬馬がオレの前からいなくなり、オレはオレの一部とも言えるピアノに触ることすらできなくなった。
オレはあの時遙人に壊され、少しずつ現実を受け入れ始め、昨年の春頃、再びピアノに向き合うことができるようになったんだ。
オレは遙人にオレのピアノを聞いて欲しかった。でもこれまで、練習している姿を一度も見せていなかった。
完全に元に戻っていないと、聴かせられないと思ったんだ。
「楽しいから。まだ楽しいだけで弾いていた頃の気持ちで弾いてるから」
いろんな想いが押し寄せて、オレも涙ぐみそうにたなる。
「これ、ハルのこと想いながら、作った曲だよ ── タイトルは『春ノクルオト』」
「え……」
「ハル……遙人。好きだよ。今までちゃんと言えなくて……ごめん。二年も待たせて、ごめんな。オレ、遙人が好きだ。こんなおじさんだけど、ずっと、一緒にいたい」
「シウさん、嬉しい。俺も ──」
そんな言葉を期待していたけれど。
し……ん。
オレの胸の辺りに両手を垂らしたまま、遙人は動かない。
( あ……れ? )
そして、ふうと大きな溜息が、オレの髪を軽く舞い上げる。
( あー……。やっぱり引いちゃったかな。オレの乙女思考 )
どんな言葉が返ってくるのか。さっきまでの高揚は薄れ、別な意味で心臓が波打つ。
「シウさん」
感情を感じない低音が、頭の上に落ちてくる。
「もしかして……この曲を披露してから告白……なんてこと考えてました?」
「う……ん。この曲、お前に余り会えなかった一月頃に完成したんだ。それから、ずっと、そう思ってた。……やっぱり気持ち悪いよな。こんな三十過ぎのおっさんが、こんなこと考えてるなんて」
次の言葉を待たず、オレは話し続ける。望んでいない言葉を発するかも知れない遙人には、しゃべらせない。
先に予防線を張る。自分が傷つかないように。
「おまえさー。前に“次は”とかなんとか言ってたけどさー。あれから二年近く経ってるし、気持ちも変わるよな。おまえ、モテるし、いつまでもはっきりしないオレより、もっとイイ人ができても仕方ないよ。じゃなきゃ、好きな相手前にして、二年近くも何もしないなんてさー……」
ちゅっ。
( へっ? )
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