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5.狐は探す①
「……輪廻とは、サンスクリット語のサンサーラに由来する言葉で、人が死んで転生し、人を含めたあらゆる生物に生まれ変わる事を車輪の軌跡に例えたものです。インド思想では限りなく続く生と死の連鎖を苦しみと捉えており、その輪から解脱する事を理想とする……」
大学の講義室に延々と響く教授の声を、コウはぼんやりと聞いていた。机の前に教科書とノートを広げているものの、全く授業に集中できない。
コウはちらりと右斜め前に座る女子の肩へ視線をやる。そこでは羽虫に似た小さな妖精の異形が一匹、飛んだり跳ねたりして遊んでいた。
そのままじっと見つめていると、彼女――彼もしれないが――はそれに気付いたらしく、興味津々な様子でコウの方へ飛んで来る。しかしコウの半径三十センチ以内に入った途端、彼女は空中で飛び上がり、慌ててどこかへ去ってしまった。
やっぱり、か。
コウは額に手を当て俯いた。
今朝からずっとこうなのだ。マンション前で遊んでいた小鬼も、電車内に充満していた念影も、大学の正門前でうたた寝をしていた猫又も、みんなコウの半径三十センチ以内に近づこうとしない。こちら側から近づいても、すぐにどこかへ逃げてしまうのだ。まるでコウを怖がっているかのように。
――それがあれば、お前は少なくとも半日、異形に襲われることはないだろう。
昨夜の蒼月の言葉が脳内再生される。思い出した声に思わずコウが目を閉じると、瞼の裏に「術」を掛けられた時の光景が浮かんできて、一気に頬が熱くなった。
全部、蒼月とか言う狐のせいだ。
コウは心の中で悪態をつく。
助けてくれたことはありがたいし、異形が近寄ってこないのは自分としても生活しやすい。だが、彼らに避けられる度に昨日の光景が蘇ってきて、あらゆる事に集中できなかった。
おまけに、一番の問題は。
「相手は男……。なのに、なんで……」
俯いたまま、コウは軽く唇を噛む。
確かに始めは驚いた。だが、何度もあの感覚を思い出す度、同時に思い知らされる。
あれを、不快と感じなかった事を。
むしろとても安堵し、高揚にも似た気持ちが生まれた事を。
「初対面の男にキスされて喜ぶなんて……。確かにそういう事はした事無かったけど、俺はそんなに飢えてたの……?」
困惑、羞恥、絶望。そんな感情が胸に渦巻き、深いため息となって吐き出された。
その時、後ろから軽く肩を叩かれる。
「なーに一人で鬱ってんだよ」
「淳?」
顔を上げると、渾田 淳 がそこに立っていた。彼はコウの幼なじみかつ腐れ縁で、小学生の時出会って以降、ずっと同じ学校に通っている。大学でも専攻は違えど同じ文学部のためか、なにかと授業で一緒になっていた。
若干軽い性格の彼だが、さすがに授業中立ち歩くような馬鹿ではない……と思って周りを見れば、教授の姿は教壇の上から消えており、学生達は次々講義室を後にしている。どうやら思い詰めている内に、講義が終わってしまったらしい。その証拠に、壁の時計は昼休み開始時刻である十二時を指していた。
淳は癖のある茶色い髪を揺らしながら、人好きしそうな表情で笑う。
「後ろから見てて面白かったぜ。お前、途中からいきなり俯いて動かなくなるんだもんな……ってか、今日変な香水でもつけてんのか? めちゃくちゃ獣っぽい匂いがするんだけど」
「淳……。俺、ヤバいかもしれない……」
「はぁ?」
問いかけを無視して鬱々とした息を吐き出すコウに、淳は眉間に皺を寄せた。だが、暫しの沈黙の後、彼は何かを思い付いたように手を叩く。
「もしかして、また異形がらみで何かあったか?」
「……」
「なるほどなぁ」
沈黙を肯定と捉えたらしい淳は、腕時計の文字盤を見遣った後に口を開く。
「お前、午後の授業は?」
「今日は午前で終わりだけど」
答えを聞いた淳は、白い歯を見せて笑顔を作る。
「おっ、俺もだ。なら、一緒に昼飯食いに行こうぜ。その時ゆっくり聞いてやるよ」
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