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8.狐は探す④
頭の右上から、聞き覚えのある声が降ってきた。後方に倒れたコウは、声の主によって後ろから軽く抱きすくめられる。ふわりと漂ってきた覚えのある香りは、そういえば白梅に似ていると人ごとのように思った。
視線を右に動かせば、青い瞳が目に入った。肩に付かない程度のストレートの黒髪と、顔の両側に付いた形のいい耳は、どう見ても人間の物だったが、それでもコウは断言出来る。
この男は、人に化けた昨日の九尾だ。
間近で淳が目を見開き、通りがかりの女子学生が悲鳴を上げる。だが周囲から集まった注目を一切気にも留めない様子で、彼は表情を変えず言葉を続けた。
「昨日告げた通り、会いに来た」
「…………ひ、人違いです」
関わらない。完全無視。
その二言を頭の中で繰り返しつつ、コウは視線を下に逸らす。だが胸の前に回された黒い中華服の袖が目に入り、余計に心を乱されてしまった。
コウの反応に、蒼月は訝しげな声を上げる。
「人違い? そんなはずはない。匂いで分かる」
「ひっ」
すん、と首元で匂いを嗅がれ、コウは悲鳴を上げて赤面した。九尾とは言え狐は動物。ならば匂いで相手を識別することなど当然なのだろうが、それを人間の身体でされると、恐ろしいやら恥ずかしいやら、なんとも言えない気持ちになってくる。
感情にまかせて蒼月を突き放してしまいたかったが、右手首を掴む手も、胸の前に回された腕も、振りほどけないほどにがっちりと固定されていた。
その時二人のやりとりにしばし呆気にとられていた様子の淳が、コウの悲鳴を聞いて我に返ったように蒼月の顔を指さした。
「おい! コウから離れろ!」
蒼月はコウの顔から視線を外し、淳の方に意識を向ける。
「お前は……、人間か?」
「そうだよ、コウの幼なじみだ! お前、そいつに何するつもりだよ!」
「ただ、守りに来ただけだ」
「何言ってんだ、現在進行形で危害を加えてるじゃねえか! それにそいつを守るのは、ずっと昔から俺の役目なんだよ!」
「……ならば今日よりお前はその役目を外れていいぞ。以降は私が引き継ごう」
さも当然のように告げる蒼月。その後、「ああそういえば」と彼は右手を離しつつ、コウの身体を自分の方に向き直らせた。
「あれから半日経っている。また、刻み直さねば」
「え? ま、待って!?」
コウは咄嗟に彼を制止しようとするが、額を掻き上げられた後では遅かった。
早春の風にさらされた額に、蒼月が温かなキスを落とす。
「――!!」
周囲の野次馬から先程より大きな悲鳴が上がり、コウの顔は火が出そうなほど真っ赤に染まった。
淳は蒼月の行為にしばし絶句し、やがてわなわなと身体を震わせ始めた。
「てめぇ、俺がずっと――」
怒りを顕わにした淳は、顔を赤く染めながら、彼はずかずかこちらに側に近づいてくる。その気迫は、これまで見てきた中でも群を抜いていた。
だが蒼月は大して動揺した様子もない。小さくため息をついて、面倒そうにぼそりと呟く。
「……うるさい鳥だ」
瞬間、蒼月の瞳が不気味に光った。
「――!!」
同時に、淳の身体が硬直する。まるで石にでも変えられたように、一点を見つめたまま動かなくなってしまった。
「淳!?」
「案ずるな。少し暗示を掛けただけだ」
蒼月は口を僅かに歪めつつ、空いた右手で宙を払った。
「もう去れ」
「……はい」
淳は先程の怒りなど忘れたかのように頷いた。コウと蒼月に背を向けて、すたすたとその場を去って行く。
「えっ、淳!? 淳!!」
コウの悲痛な叫びも届く事無く、遂に彼の姿は雑踏に紛れて消えてしまった。
「ふん、この程度か。しかし……九百年見ない間に人間は余計に面倒なことになっているらしいな」
「お前……一体何が目的だ!! それと、いい加減身体を放せ!!」
睨みつけると、蒼月は静かに視線をコウに戻し、ようやく身体を抱えていた腕を放す。しかし右手首の方は、依然として握られたままだった。
「目的は先程言ったろう。お前を守りに、と」
「……」
「その昨夜より反抗的な態度は、先程の人間の所為か?」
自分を睨むコウを見て、蒼月は眉間に深く皺を刻んだ。しばしの沈黙の後、彼は「まあいい」とため息をつく。
「とにかく、今は一緒に来て貰おう。聞かなければならないこともある」
「わっ、ちょっと……」
蒼月は半ば強引にコウの手を引き歩き出す。しかし五歩ほど歩いたところで立ち止まり、「ところで」とコウの方を振り返った。
「この時代、密談にふさわしい場所はどこだ?」
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