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9.狐は語る①
大学付近の某コーヒーチェーン店。ジャズが流れる店内は夕方になるといつも授業終わりの学生達で賑わうのだが、昼間の今では人もまばらで空席の方が目立っている。
「いらっしゃいませ! ご注文は?」
「ブレンドコーヒー二つで。一つには、砂糖とミルクを付けてください」
コウは一人注文を行い、出てきたコーヒーを手に客席へ戻った。一人用のカウンターと二人がけの机と椅子の間を通りつつ、最奥の壁際、ソファが並ぶスペースに入る。
その一番右端、観葉植物の影に置かれた席の向こう、壁を背にして仏頂面でソファに座っている人物を見て、コウは小さくため息をついた。
「はい、買ってきたよ」
コウは席に座りつつ、自分と相手にコーヒーを配る。追加で頼んだ砂糖とミルクは相手のカップへ添えてやった。
「……ああ」
目の前の相手――蒼月は、返事をしたもののコーヒーの方へは目もくれず、店内をぐるりと見渡し顔をしかめた。
なんだ、何か不満でもあるのか。
コウは口をへの字に曲げつつ、湯気の上るコーヒーを啜った。その味が思ったよりも苦みが強く、余計にコウの感情を加速させる。
大体、不機嫌になりたいのは自分の方だ。何せこの蒼月という狐は、人間社会の常識を全く知らなかったのだから。
信号が赤でも進もうとするし、車道を平気で渡ろうとするし、人混みが邪魔だと妙な術を使おうとする。そんな彼にこれはダメだ、あれはダメだと言いながらここまで引っ張って来るのは、気力体力共にひどく消費した。
「……なんであんなに常識がなかったんだ。人に化けるんだったら、その辺もちゃんとするもんじゃないの、普通」
コウが問うと、蒼月は腕を組んでソファに深くもたれかかった。
「仕方が無い。地上には、九百年近く来ていなかったからな」
「お前って、荼枳尼天の使い……つまり神の使いなんだよね。なのに、九百年も地上に出ないってあるわけ? 人を守る仕事とかあるんじゃないの?」
「奴は護法神と地獄の官吏を兼任している。故に神使らも仕事によって二組に分かれているのだ。私は官吏の職務の補佐だったから、これまで地上に出る必要が無かったという訳だ」
「ふー……ん?」
地獄の官吏の補佐だから地獄にいた。確かに最もらしい理由である。
「人や異形、道具や建物の様子から、昔のものがどのように変わっていったのか想像は出来るが、細かい常識までは分からない。故に密談に適切な場所が、この時代では斯様に人が多い場所ということは思ってもみなかった」
最後の一言に毒気を感じ、彼の不機嫌の原因を理解する。だが、我慢してもらう他ないだろう。カラオケやネカフェなど、より適切な場所は他にもたくさんあるのだが、そういう場所は大抵蒼月と二人になってしまう。彼の本心が分からない以上、密室に入るのは避けたかった。二人きりになった途端、頭から喰われては洒落にならない。
「一般人がするような密談だったらこれくらいでいいんだよ」
「……そういうものか……」
蒼月の語尾の調子が微妙に下がり、仏頂面からどことなく寂しげな表情に変わる。それが叱られた飼い犬のようにも見えて、コウの心が僅かに揺れた。それで絆されてはなるまいと、コウは咳払いをして調子を保ち、「ところで」と切り替える。
「話があるなら、早く言ってくれない? そして早く俺を自由にして」
蒼月はその言葉に顔を上げ、正面からじっとコウを見つめてきた。推し量るような、何かを確かめるようなその瞳に、思わず目が離せなくなる。
改めて、人に化けた蒼月の姿を見た。
白い肌と青い瞳はそのままに、髪が夜闇と紛うほどに黒く染められてる。襟の詰まった緩やかな中華服は、確か長袍という名だったはずだ。黒の生地に赤の刺繍が入ったその服は、蒼月の妖しげな美しさを余計に際立たせている。そして広めの袖から覗く両腕には、白い包帯が巻かれていた。
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