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日常が非日常に変わる時-5
「はじめ、さま、」
「よかった、サイズも丁度いいみたいだ。」
「いやその…これは一体…」
「そうだな…。うん、プロポーズみたいなものだと思ってもらっていい。」
プロポーズ
身近でおよそ聞くことのない単語を頭の中で反芻した。
サイズはぴったりのはずなのに、自分の指で輝くそれは全くの異物でしかない。瞳孔が開ききった目で指輪を凝視する辰臣の様子がさすがにおかしいと気付いたのか、次第に表情が硬くなっていく。
「一様。」
静かに呼びかけると、一の黒曜石のような瞳が不安そうに揺れた。いつだって前を向いて堂々としている彼が。一と触れ合っている手が不思議と焦げるように熱いような気がした。彼の言葉に、嘘などない。今までも、これからも。理由も分からないけれど、一が自分に向けている好意は本物なのだろう。どうしてこんな状況になってしまったのかは全く分からないが、それならばこちらも相応の態度で応えなければ。
「これはお返しします。」
繋がれていた手を解き、薬指をシルバーのリングから静かに抜いた。傷一つないそれを一の大きな手のひらに乗せると、彼は小さく息をのむ。彼を傷つけるのは本意ではないが、受け取ることはできないのだ。キリキリと痛む胃には気付かない振りをして手を引こうとした。けれどそれは、突然強い力で腕ごと掴まれたせいで叶わなかった。その相手が誰かなど明らかだ。普段から鍛えている辰臣の体幹を持ってしても耐えられず、テーブルの上につんのめる。その衝撃で数分前に淹れた紅茶が零れて、ガチャンと陶器がぶつかる嫌な音がした。真っ白なテーブルクロスが汚れてしまう、と頭の隅っこで過ったが、目の前の壮麗な顔があまりにも激しい怒りを湛えていて口を噤むしかなかった。鼻と鼻が触れ合うほどに近い。癖のない黒髪の間から覗く瞳は、真っ直ぐにこちらを射抜いている。
2人でじっと息を殺し、重い沈黙が続いていた空気を破ったのは一の方だった。
「なぜ?一生傍にいるってあの日俺に誓ったのはオミの方だろ。」
喉の奥からやっと絞り出したように掠れているその声。過去に一度だけ聞いたことがある、心の底から起こっている時のそれだ。
「それは、私の、仕事…が、一様を生涯お守りすることで、」
「あれはリップサービスだったってことか?」
自分は何も悪いことなどしていないはずだ。なのにどうしてこんなに詰められているのか。
「俺に嘘をついたのか?」
「一様に嘘なんてつきません!」
必死に首を振るも、刺すような殺気はこちらに向けられたまま。このまま解雇だとか絶縁だとか言われかねない空気に、じわりと嫌な汗が滲んでくる。脳内に響く心臓の音がうるさい。
本当に、一体どうしてこんなことになってしまったんだろう。
「いや、悪い。待って、ちょっと…冷静になる。」
暫くすると、一はそう言ってふらりと立ち上がり部屋を出て行った。腕に残った一の爪の跡がじくじくと主張する痛みが、これは紛れもない現実なのだと辰臣に突き付けていた。
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