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第3話 夢のような
これが夢なら、そろそろ醒めてもいいと思うけれど。
「あ、好きに使ってもらってかまわないからさ。俺もあんたがいるって気にすることなく好きにするし」
こんなこと、夢に決まってる。
「なんだっけ……名前」
ありえない。今、ミツナの部屋に自分がいるなんてこと。
「佐野」
「じゃなくて、下の名前」
「悠壱」
「そうそう、悠壱だ」
ミツナは屈託なく笑うと真っ白なソファに身を投げるように座った。
「宜しく。悠壱」
まるで高級ブランドのポスターかのように綺麗に微笑みながら。
――悠壱! ちょっと来て。
そう呼ばれたんだ。
撮影が終わった後、カメラの片付けをしている最中に。
その声に、彼を囲うようにぐるりと周りにいたスタッフ達が一斉に顔をこっちへ向けた。なんだろう。何かヘマをしてしまったのかもしれないと思った。不慣れな事ばかりの撮影だったから。ただ、ファインダーの向こう側にいるミツナを追いかけて、小さな視界の中で彼を閉じ込めようと必死だっただけ、だったから。
けれどもそうじゃなかった。
――タバコ吸う?
――え?
――タバコ。
――吸わない、けど。
――ならよかった。
意図の読めない質問に戸惑っていた。
――ねぇ、あんたさ、俺の写真撮ってよ。三ヶ月間。
呼ばれたのは、ヘマ、ではなく、ミツナからの仕事の依頼だった。そして今、チャペルから、ここ、ミツナの部屋に来ていた。
「あ、あの……」
「あぁ! そっか。家ん中の説明しないとわかんねぇじゃん」
今度はパッと立ち上がり、足取りも軽く、白とブラウンをメインにした部屋の中を闊歩した。
「こっちがキッチン」
カタログにでも載っていそうなモデルルームのようなキッチンだ。傷もなく、料理なんてしたことが全くないようなそんなキッチン。本人もそう思っているようで、好きに使っていい。でもなぁんにも入ってないからさ、とほぼ何も入っていないに等しい冷蔵庫を開けて笑っている。
「そんでここがバスルーム。タオルはここ。使ったのはそこに放り込んでおいて。二日に一回、ハウスキーパーの人が来てやってくから」
「あ、あの」
バスルームだけは多少生活感があった。俺のワンルームと同じくらい広いんじゃないか? そんなバスルームには高級ブランドのケア製品が並んでる。それから朝使ったんだろうドライヤーがコードを抜かずに洗面台のところにゴロリと横たわっていた。
どこもかしこも豪勢だ。
「どうして、俺に……」
「……」
――写真って? あの、三ヶ月間って……。
ただのスタジオカメラマン相手にからかってるんだ。
――そのまんまの意味だよ。今度ある企画でさ、俺のプライベートもごっそり写真に撮って本にするんだわ。ぜーんぶ。
ミツナはそう言うと、唇の端だけを吊り上げて笑った。少し、どこか呆れたような笑い方だった。
――その写真を撮るカメラマンを探してたんだ。そんで、あんたがそれを撮る。
呆然、とするだろ?
何を言っているんだってさ。
ただのスタジオカメラマンに、あのミツナの三ヶ月間密着撮影を任せるなんてこと誰がすると思うんだ? そう周囲も、俺も、戸惑うばかりだったのに。
――なぁ、マネージャー。
ミツナだけが笑っていた。
さっきとは違う、楽しそうな笑い方だった。
――カメラマン、こいつね。こいつ以外なら、この前、話したようにこの企画はナシだ。どっちにしても三ヶ月間俺に密着できるような根性のある奴いないだろ?
仕事は三ヶ月間、朝から夜、朝はミツナが言う時間から、夜は就寝前まででかまわない。ただ、ミツナの日常を撮り続けるだけの仕事。ただただ、三ヶ月間、この苛立ってばかりいる獣のような美しい男をこのカメラのファインダー越しに捕らえ続ける仕事。
「…………さぁ」
ただの気まぐれなんだろう。
誰よりも美しいミツナはきっと何もかもが退屈なんだ。誰もが向ける羨望の眼差しさえ、邪魔なのだろう。そんな彼の気晴らしに俺があてがわれたんだろう。
「けど、結婚式で馬鹿みたいに笑ってる奴らを撮るより楽しいんじゃね?」
そんなことない。
「やってくれるんだろ?」
そんなわけない。結婚式の花嫁花婿を撮るより楽しい? ありえない。
「……悠壱」
そんなものじゃない。
この男をカメラのファインダー越しに捕らえることができるなんて、そんなの夢のようだ。
「はい。や、ります」
ほら、あまりの出来事に興奮してるせいで、言葉が喉のところでつっかえた。
ミツナは俺の返事を聞いて、目を細めるとまた少しだけ笑って、さっきの白いソファの上に座った。
「今更だけどさ、そっちの仕事は心配しなくていいから。マネージャーがどうにでもしてくれるからさ」
「ぁ……えぇ」
「それじゃあ……三ヶ月……宜しく……」
彼は目を瞑り、そしてそのまま言葉は溜め息に変わって、いつしか柔らかい吐息になった。
「…………ぁ」
彼が眠る呼吸の音だけが聞こえてくる。その唇から、小さく穏やかな吐息が溢れる音と、部屋に降り注ぐ夕方の日差しがその綺麗な寝顔を照らしてる。髪は陽に透けると絹糸のように輝いていた。
――カシャ。
思わず、一枚、撮ったんだ。そっとケースからカメラを取り出して、サバンナの中で空気に自分を溶かして、静かに、静かに、獣達を起こしてしまうことのないように、そっとシャッターを切った時のように。
「……」
そして、彼をこの手の中でだけ捕らえ続ける、俺の三ヶ月間が始まった。
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