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第11話 休日

「んー、じゃあ、俺、ネギ味噌ラーメン。悠壱は?」  不思議な光景だ。 「悠壱、何食うの?」 「え、あ……じゃあ、野菜ラーメンで……あ、辛味噌」 「あ、あと、餃子とビール」  ミツナはそれを頼むと、古びたメニュー一覧表をテーブルの端へとどけた。 「そっちもうまそーって思った」 「ぇ?」 「辛味噌」  普通のラーメン屋だ。さっき炊飯器を買った家電量販店と駅の間にあったラーメン屋がミツナは気になったらしく、夕食をそこで食べることになった。 「どうかした? ポカンとして」 「あ……いや……なんか、ラーメンってモデルの人は年に一回くらいしか食べられないのかと」 「はぁ? 何それ」 「あ、いや、前に仕事で撮ったモデルがそう言ってたのを聞いたから」  一度だけモデルと仕事をしたことがある。その時にそう言っていたのを聞いたんだ。有名なモデルとかじゃなくて、いわゆるブライダルモデルと撮影をしていた時のことだった。ラーメンなんて炭水化物と糖質のてんこ盛りだから、食べられないと言われたんだ。年に一回、それこそ、どうしても食べたいと思った時意外には翌日からのことが気になって食べられないって聞いて、大変な仕事だなと思った。 「スッゲーな、それ。ねぇよ、俺、そういうの、ぜーんぜん気にしない」  前にもそう言っていた。食事制限とかしたことがないって。それでもこうしてモデルとして成功できるっていうことが、彼の才能というか持って生まれた資質なんだろうな。どこでだって人を惹きつける。こんなラーメン屋ですら。 「それからミツナもこういう所で食事をするのが不思議だなって思って」 「あは、どんだけあんたの中で俺は美化されてんの?」  美化、しているつもりはないけれど。  だって、もっとお洒落なバーとか、カフェの方が似合うだろう? 絵になるっていうかさ。  こんな普通のラーメン屋とか行かないような気がしていた。こんな使い込んで油が染み込んだようなカウンターのテーブルでラーメンを食べるとか。 「美化しすぎ、俺そんな上等なものじゃないからさ」 「そんなこと」 「あ、ねぇ、あれなんて読むの」 「え? あ、これは」  ミツナが指差した先ではニュース番組がテレビに映っていた。 「教養とか全然ないからさ」 「そんなの」 「だから」  ふぅ、と小さく溜め息をつく姿すら絵になる。 「こういうとこの方が落ち着く……」  普通のラーメン屋だ。けれど、ミツナは小さく笑って、その少しベタつく気のするテーブルに肘を置き頬杖をついた。そのテーブルの木目を長い指の整えられた爪の先でなぞっては、目を細めて。  その様子に見惚れているところにラーメンが到着した。それから続いて餃子に、ビール。 「ほら、食おうぜ。うまそー」 「あ、うん」 「んじゃあ、いただきます」 「い、いただきます……」  まるでどこかのサラリーマンの頼んだメニューのようなそれらに、巷で騒がれている大人気のモデルが嬉しそうに齧り付いていた。 「案外、美味かったね」    まだかなり寒さが厳しいはずの一月下旬にも関わらず、そんな寒そうな様子はちっとも見せることなく、ミツナが満足そうに笑っている。  ラーメンにビールに餃子、大人気モデルの夕食としては意外すぎる夕食。  あの店には申し訳ないけれど、女性は少し入るのを嫌がりそうな場所だと思う。  いや、どうだろう。  ミツナに誘われたらどこでも喜んでついていくかもしれない。   「はぁ、楽しかった」    せっかくのオフ、だったのに?  ただのカメラマンとほぼ一日過ごすことが?  同性だから気兼ねしないで済む、とかってことだろうか。ああいう気取らない食事の方が好きなのに、女性を連れて行っても、あのラーメン屋はちょっと……って言われてしまうとか?   「あんたにしてみたら、せっかくのオフに男の買い物に付き合わされて退屈だったかも」 「え? そんなことは」  それはこっちの台詞だ。せっかくのオフに、俺みたいなのに買い物に付き合ってもらって一日が終わってしまうなんて、もったいないんじゃないか? 「けど、ほぼ一日付き合わせちゃったじゃん。あんた、モテるだろ? 恋人とかにブーイングされたんじゃねぇの」 「まさか……ないよ」 「恋人は?」 「いない」 「へー、いそうなのに。優しいし」  この気持ちはなんだろう。  なんていう名前をつけるのがいいのだろう。 「彼女がいたけど、別れた」 「へー……」  あの時、俺を突き動かしたこの感情に名前をつけていない。  名前をつけるのはまだ躊躇っている。  怖い、のかもしれない。  この気持ちに、感情に名前をつけてしまうのは。まだ衝動のまま、輪郭をはっきりさせないまま、ぼんやりとこの感情に従っているうちは、どうにか深みにハマらずに済むんじゃないかと思っている。 「その彼女、もったいないことしたって今頃思ってんじゃね?」 「まさか」  ミツナは小さく笑って、一段高くなっている歩道のブロックに上った。歩き方もモデルの技術の一つ、なんだろう。その幅二十センチもないだろうブロックの上を華麗に歩いていく。 「おっと」 「!」  アルコールに足元がふらついた瞬間、思わず、バランスを取っていた長い腕を掴んでしまった。 「ありがと」 「ど、いたしまして」 「明日さ」 「?」 「朝、早めの来てよ。撮影が丸一日がかりらしいんだよね」  そうなのか。そういうスケジュールを俺は少しも把握してない。別にミツナよりも優先させるものも特にないからだ。いくらでも彼の予定に合わせる。 「だから、これ」 「……」  その掴んで支えた手が何かを握っていた。 「鍵」  その握っていたものを俺の掌に落とすと、ブロックから飛び降りて、二歩、三歩と踊るように駆けてから、振り返った。 「俺、朝、苦手だから、それ持って勝手に入ってきて、起こしてよ」  その銀色をしたものは温かかった。 「宜しく」  この気持ちに、感情に、衝動に、まだ名前をつけていない。 「あんたが寝坊したら、俺も寝坊になるから気をつけて」  この感情に名前をつけずにいれば、気の迷いだったと、気のせいだったと、どこかでお仕舞いにできるかもしれないと思っているから。  だって、これに名前をつけても仕方ないだろ? こんなの、育てても花も咲かないし、実もつかないんだから。 「悠壱」  だから、まだ、この感情に名前をつけていなかった。

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