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第13話 名無しの感情

 炊飯器が届いた。  それから毎日。 「これめっちゃ美味い」 「よかった」 「こんなん作れんのすごいね」  それから毎日、食事を一緒にしている。主に夕食。 「俺、ほうれん草ってあんま好きじゃなかったんだけどさぁ。これはめっちゃ食える」  あれから毎日、預かっている合鍵で、朝、ミツナを起こしてる。  前日に指定された時間くらいに合鍵を使って部屋に入ると、大体眠っていて、俺が起こすんだ。目覚まし時計はいつの間にか止めてしまうからちっとも起きられないと。だから、起こしてくれと頼まれた。ぐっすり眠っているところを起こしてやると一度あくびをしてから起き上がり、身支度を始める。朝食は食べない。俺はその様子をたまに写真に撮りながら、支度を終えるのを眺めている。そのうちにマネージャーが迎えに来る。それからずっとミツナのそばでカメラ片手に付き添う。 「あんた、すげーな」  そして、ネット界隈からミツナのゴシップネタがなくなった。たまにネット上でだけ騒がれて、けれど、週刊誌などに載ることはなかったんだ。事務所が総出で消して回っているって、それもネットで噂になっていたけれど。ここ最近はネットで騒がれることもなくて。それは、夜、出歩くことなく仕事を終えると真っ直ぐ帰宅するからで。  とても信じられないけれど。  ゴシップネタがなくなったのは俺がミツナと一緒にいるから、で。 「こっちのもめっちゃ美味い。完璧じゃん。しっかりしてて、料理もできてさ。女がほっとかなさそう」 「そんなことない」  今日はカブの照り焼きっていうのを作った。この前、レシピを探していたら簡単そうなのに、サイトに載っていた出来上がりの写真がとても美味そうだったから。 「それ簡単だったよ」  写真のよりは見た目が幾分か見劣りしてしまうけれど、味は、まぁ、それなりに。 「ミツナでも作れる」 「面倒くせぇ。それにあんたが作ってくれるからやらない」  ミツナが満面の笑みでまた一口でかぶを口いっぱいに頬張った。 「また、作るよ」  ミツナはどんな顔をするんだろう。  ある日、まだ、その当時、今ほどの人気はなかった一人のモデルを街で見かけた。そのモデルをいつか写真に撮ってみたくて、それなりに評価されていたカメラの道からスタジオカメラマンっていう道に乗り換えたんだ。そのことに当時付き合っていた彼女は呆れ、別れることになった。それでも気にならなかった。彼女と別れることよりも、そのモデルを追いかけることを選んだ。  そう言ったら、ミツナはどんな顔をするのだろう。 「あ、そうだ。明後日はオフだから。明日、夜、ワイン飲もうぜ」 「いいけど」 「帰るの面倒だったら泊まってけばいいし」  その追いかけていたモデルが今、目の前にいると告げたら、今、口にした言葉を慌てて仕舞うだろうか。 「どうせ、その明後日の朝もあんたが俺を起こすんだし」  今、こちらに向けている笑顔をどうするだろう。  この衝動に名前は付けていない。付けたら、名前を付けて形をはっきりさせてしまったら、この信じられない時間がガラガラと音を立てて崩れてしまうだろうから。  ミツナを朝起こすことも、夜、食事を作って一緒に食べることも、「おやすみ」と告げられることも、こうして笑いかけられることもなくなってしまうだろうから。 「あ、そしたら、明日、帰りは別々に……」 「なんか用事あんの?」 「いや、食材ないから、買っていく。だから、先に少し早く帰る、あ、いや……帰るっていうと日本語変だけど。ここは俺のうちじゃないし」 「っぷ、いーよ、帰る、で。俺こそ日本語おかしーだろ? ね、食材もうねぇの?」 「あぁ」  買い物はいつも一人で済ませてるんだ。ミツナがスーパーなんて来たら主婦が大騒ぎしそうだから。昼間の情報番組とかでよく特集組まれてるのを前は見てたから知っている。すごく人気があるって。 「一緒に行こうか?」 「だ、大丈夫! 疲れてるだろ。撮影で」 「そのために早く切り上げて買ってきてくれんの?」 「その方が、早く夕食食べられるだろうなって……」 「やっさしー」  優しくはない。これは、ただの……。 「たっけぇのもでいーよ。酒。俺が出すし。でも、写真撮んなくていーの?」 「毎日何百枚って撮ってる」 「すげー」  ミツナを見ていたらいくらでも際限なく写真を撮り続けるだろう。だって、そのくらい……。 「じゃあ、明日はそんな感じで」  そのくらい、俺は……。  酒、ワインでいいんだろうか。一本? 二本? としばらく迷ってから、二本買ってしまったけれど。別に腐るものじゃないんだ。飲まなかったらそのまま次回のために取っておけばいいし。 「……」  次回、だってさ。  自分でそう思って、自分で烏滸がましさと、信じられないっていうのと、色々が混ざって、レジのところで一人で勝手に赤面してしまった。  もう撮影が終わった頃だろうか。最後の撮影にはほとんど立ち会わなかった。買い物があったし、明日オフで酒が飲みたいと言っていたから、少しだけ気合いの入った料理がいいかなって。酒と一緒に米はまずいだろうから、今夜は飯ものはなしにして、魚料理にしようと思うんだ。アクアパッツァとか。少し前の自分なら作ろうとも思わなかっただろうけれど。毎日手料理やってれば……。 「……ぁ」  またそこで、自分の考えたことに一人で赤面していた時だった。ズボンのポケットに入れていたスマホが振動をして、ガサゴソとレジ袋を片手で全部持ちながら、スマホの画面に表示された名前にまた赤面して。  電話に出るだけでも喉奥が何か締め付けられて。 「もしもし? 今から、そっちに……」  帰りますと言っていいのだろうかと戸惑いながら、頬が熱くなったのを感じた時だった。帰ります、なんて、自分の部屋でもないのに言っていいのだろうかと。 『ゆ……い、ち?』 「ミツナ?」 『悠壱……』  まだ、この感情に名前は付けてない。  この気持ちに名前はまだ。 「ミツナっ?」  苦しそうなミツナの声が俺を呼んだ瞬間、何もかもをかなぐり捨てて走り出した、この感情の名前はまだ――。

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