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第25話 ご機嫌笑顔

「なんか、今日のミツナさん、機嫌すごいいいよね」  そんな声が前に立っている若い女性スタッフたちの会話の中から聞こえてきて、ピクンと指先が反応した。 「あ、私も思った!」 「私、何かいいことあったんですか? なんて聞いちゃったもん」  聞いちゃった、のか。なんて答えたんだろう。 「あ、ずるい! ミツナさんに話しかけた! え、なんて言ってたの?」  そうそう、なんて言ってた? 「別に何もないですよ? って、微笑まれちゃったー! もうその笑顔で妊娠するかと思った!」  妊……。 「でもあれは何かあったよね。さっき前髪直させてもらった時もめっちゃ笑顔でぇ。鼻歌聞いちゃったもん」  何かあった……ってさ。 「イケメン笑顔、もうやばい」 「やばいよおお」  確かに、やばい。 「それでは撮影終了でーす!」  そんな大きな声がスタジオの中央から聞こえてきた。それと同時に、今、立ち話をしていた彼女たちも、他のスタッフたちも自分達の仕事に急いで取り掛かり始める。 「ねぇ、マネージャー、今日ってこれで撮影ラストでしょ?」 「えぇ」 「オッケー」  鼻歌、混じり。 「……今日はずいぶんご機嫌ですね。昨日のオフでリフレッシュできたんですか?」 「んー? まぁね。けど、別に何もなかったよ?」  確かに、俺も、やばい。 「さ、帰ろうっと」  今日は一日ずっと、くすぐったくて……やばいんだ。 「うわー! 湯気すげー!」  鍋の蓋を開けた途端に部屋に湯気がふわりと立ち込めた。ただそれだけのことに、まるで夜空いっぱいに広がった見事な花火でも見上げるように、ミツナが笑顔を輝かせてる。 「いっただっきます」  また鼻歌混じりだ。 「鍋、うっま!」  夕食に鍋を出してみたことはなかった。  まず、鍋がミツナの部屋にはなかったから。作ろうとは思わなかったんだ。  それに鍋をわざわざ買うっていうのも……ね。  俺にとっても久しぶりの鍋だ。一人暮らしじゃ、わざわざ作らないというか。  鍋ってさ、一人で食べるには少し味気ない気がしてしまって。もちろん、一人用の鍋だって美味いけれど、なんとなくイメージかな。一人で食べるよりも、二人で、三人、四人で食べるものっていうイメージがあって、それを俺がミツナと箸を突きながらするっていうのは、気が引けていた。友人でもなく、もちろん、家族でも恋人でもない俺が夕食にミツナと鍋を囲むっていうのは、さ。  恋人でも、なかった、俺が。 「肉、うっま」  ミツナは箸を正しく持ちながら、次に熱々の豆腐を食べては、また美味いって呟いてる。 「気がつかなかった。そっかぁ。鍋食いたいって俺言ったけど、鍋、ねぇじゃん。悠壱が帰って来た時、めっちゃ荷物多くて、ビビった」  そう、両手に大荷物だった。 「ごめんね」 「いや、別に」  土鍋に、鍋に入れる食材、鍵を使うのが少し大変って程度で普通に持って歩いて帰ってこれた。 「大丈夫だよ。撮影であのくらいの大荷物の中、延々歩くとかしてたし。慣れてる」 「いや、あれはしんどいっしょ。今度から、俺も買い物一緒に行こーっと」 「や、それはダメだろ」 「なんで?」 「なんでって……ミツナなんだから」 「えー? 平気だって。あそこの近くのスーパーでしょ? 俺もたまに買い物してるもん。べっつに騒がれたりしねぇって。みーんな、あそこで買い物してるのって、金持ちばっかだから、たかがモデルが一人歩いてたって気にしないって」  それよりも有名な政治家とかが歩いていた方がずっと大騒ぎになるんじゃね? 大先生っつって。と、ミツナが言ってた。確かに、スーパーの中で見かける客層は高収入者って感じがした。 「でも、俺と」 「べっつに、男二人で買い物してたって誰も変に思わないでしょー。あそこで俺が女と買い物してたら即ゴシップだけどさ」 「……」 「手繋いで、キスしたりしなけりゃ大丈夫」 「! あ、当たり前」  そんなのするわけない。 「えー? けど、俺今日、一日、めちゃくちゃ我慢してたけど?」 「……ぇ?」 「今も……我慢してるし? 腹ぺこだったからさ」  ミツナが頬杖をついて、湯気の向こうでふわりと微笑んだ。 「言ったじゃん、あんたってすっげぇエロいの」 「……」 「外にいる時はフツーに仕事できる男って感じなのにさ」  ―― 微笑まれちゃったー! もうその笑顔で妊娠するかと思った! 「そんなふうに真っ赤になって照れたりするのは可愛いし」 「っ」 「ベッドの中ではエロくてすけべだし」  俺は、ずっと、ミツナの指先を見つめてた。今、食事の最中に。 「ね、後でさ」  だって、また箸の持ち方が間違っていたら、ほんの少しでも触れられるから。ミツナのあの指先に手を添えて、そうじゃないと指の置き場所を整えるふりをして、あの指先を触れたかったから。 「たくさん見せてよ? 悠壱のエロくてすけべな顔」 「……」 「今日一日、それ見たくて仕方なかったんだから」  そう言って俺に微笑むミツナの声に、口元に、身体の奥。  ――妊娠するかと思った!  下腹部の、俺の指でも、ミツナのあの長い指でも届かない奥が。 「あとで、見せて?」  きゅぅんと切なくなった。

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