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第42話 唇に塗りつけて
俺がメイクをしてもらっている間は上機嫌なように見えた。
楽しそうに、不慣れな状況に戸惑う俺を見て笑っていたし、話していても俺のことを面白がっている様子だった。
「…………」
そのはず、だったんだけれど。
どこから、かな。無口になった。どこがきっかけなのか全くわからないけれど、急に喋らなくなって。
ほら、今だって不機嫌っていう顔をしている。
「……」
俺はそんな彼を遠くから眺めるように会場の端っこにいた。邪魔にならないように端で時間を潰すことにしたんだ。ミツナに今近づいても機嫌悪いし。
そんなミツナでも、その周囲に人がいないタイミングがほとんどなかった。ただ写真を撮るにはずっと人に囲まれていて、難しそうだから。
本当に不機嫌そうな顔をしてる。
なぜか機嫌が悪くなってしまった。
スポンサーであり大企業のパーティーに招待されているにも関わらず、不機嫌な表情を隠しもせずにいる。けれど、それを咎めるような人はいない。もうそこにいるだけで、どんな表情でも、彼がここにいるだけでいいんだろう。
やっぱり、こういう華々しい場所は苦手だ。
ふぅ、と深呼吸をしないと、なんだか息苦しいような気さえしてしまう。ちょうど良いサイズのはずなのに首に触れるワイシャツの襟すら窮屈な気がして、会場を離れたくなってくる。
会場に華として招待されたのはミツナだから、俺は別にここにいないといけないわけじゃないし、ミツナはマネージャーが遠からず近からずの場所から見守っているから大丈夫だし、と、少しだけ気分転換をしに会場を抜け出した。
「ふぅ」
会場の外には人がいなくて、静かだった。
一度、深呼吸をしてから、トイレへ。
「はぁ……」
不機嫌なミツナを見たら、ライオンを思い出した。
数年前に撮影した雄のライオン。
まだ立髪が短かったから若いんだと思う。群れを離れたばかりで独り立ちして間もないんだろうそのライオンを追いかけたんだ。
普段はのんびり昼寝をしているのに、ふと獲物の気配を感じた瞬間、耳をピーンと立てて、背を伸ばす。神経を研ぎ澄ませて、周囲を探る横顔は見惚れるほど凛々しくて。
今のミツナにそっくりだと思った。あの不機嫌な横顔が綺麗で、あの日見たライオンを思い出す。
その時に撮ったライオンの写真も好評だったっけ。賞をもらった。優秀賞ではなかったけれど。その時もこういうパーティーが行われて、俺は面倒と思いつつも参加していたんだ。
早く帰りたいなって。
今も少しだけそう思いながら、ネクタイを緩めて。
「…………どこいったのかと思った」
「……ぁ、ミツナ」
誰もいないと思っていたから、突然話しかけられて飛び上がって驚いてしまう。顔を上げるとミツナが鏡の中からこっちを見ていた。さっき、俺がメイクをしてもらっていた時と同じようにトイレの扉の辺りで壁に寄りかかりながら腕組みをして。
「気分悪い?」
「あ、いや……化粧とか慣れてないからかな、なんか暑くて」
「……」
「ファンデーションとか初めて塗ったから。これ、結構暑苦しいっていうか。ミツナはいつもこういうのを塗って仕事してるのかぁって、実感した。それにリップも……なんか唇がベトベトして」
「どこ行ったのかと思った」
「ぇ?」
不機嫌なんだと思っていた。だから話しかけられるとは思ってもいなくて、鏡の中からふと視線を外して、洗面台の大理石の模様を目で追ってしまう。
同じように大理石の床に革靴の足音が響いて。
「!」
長い足で大股で数歩、顔を上げるよりも早く俺の背後に立って、覆い被さるように背中を丸め、片手を洗面台の大理石についた。俺をその腕の中に置いたまま。
「スタイリストと一緒にどっか行ったのかって」
「……ぇ? スタイリストって、メイクしてくれた彼女?」
「リップ、煩わしいなら取りなよ」
「え? ンっ……ン、む」
不機嫌だと主張するようにポケットに入れたままだった手を出して、俺の唇を拭うとそのまま指が舌を撫でた。
「んっ……」
鏡の中にはミツナの指を二本、口に咥えた自分が映ってた。
「んんっ」
頬を赤くして、ミツナのをしゃぶる時みたいな顔をして。ホテルのトイレなんて、いつ誰が入ってきてもおかしくない場所で。重なるように抱き締められながら、指をしゃぶっている。そして、唇に塗り付けられたリップが拭われて、代わりにしゃぶってるせいで溢れそうになる唾液で濡れていく。
「仲、いいんだ?」
「? ン……っ」
「トマトソースのって、俺がこの前食べたやつだよね? あれ、教わったんだ?」
「っン」
そう。教わったんだ。彼女に。
トマトは美容にいいと彼女が教えてくれた時に、トマトが苦手な人でも食べられるものはないかって話をした。そしたら、レシピを教えてくれたんだ。すごく簡単だからって。基本、じっと端っこにいてミツナを眺めて写真に収めるだけの俺と、基本、メイクを施したあとはそのメイクが崩れないかどうか撮影の合間合間に確認するのが仕事の彼女と、ちょっとした隙間時間に、他愛のない話。料理初心者の俺と、一人暮らしが長く簡単な料理が得意な彼女の、雑談。
ただそれだけ。
「悠壱」
「あっ……ン」
あの、若い雄ライオンに似てると思った。
けれど、そうだ。あの雄ライオンは獲物を見つけて、表情を凛々しく引き締めたんだっけ。だから、今のミツナの方が似ている。あの獲物を見つけたライオンに、ほら、そっくりだ。
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