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第50話 引き止めたい
バーナード氏はとても忙しい人だから、とにかく彼の予定にできるだけこちらが合わせることになったらしい。前倒しが可能な仕事は全て前倒しで済ませてしまうことになった。
だから今日は一日中、分刻みで予定をこなしているんだろう。
けれど、俺は同行していないからその様子はわからない。
「……」
この仕事を引き受けてからずっと一緒に行動していたけれど、今日は――。
――今日は体調が悪いとのことでお休みと聞いています。大事になさってください。
俺がそう言ったんじゃない。
ミツナがそう言ったんだ。マネージャーに。今日、俺が同行していない理由を。
今、ミツナにとってとても大事な時だから、マネージャーは体調が悪い人間は近くにいてもらいたくないんだろう。無理はしなくていいと何度も言われてしまった。
「…………」
部屋の中はとてつもなく静かだった。いつもはミツナがたくさん話しかけてくるんだ。ねぇ、ねぇって。
けれど今日は一人だから静かで。
でも……あぁ、昨日の夜は、ミツナも静かだった。
部屋に響くのは俺の喘ぎ声ばかりで。
少し様子が違ってた。
もうあの時にはすでに決めていたんだろうか。
バーナード氏に撮ってもらうって。
けれど、その数時間前までは、やらないって……言ってたのに。
俺が訊いた時だって、一ヶ月後ならなんでもするけれど、今はダメだって。
今はこの、俺との仕事を優先させたいって。
そう、言っていたのに。
どこで変えたんだろう。
どこで変わったんだろう。
何があったんだろう。
なんで……。
「……」
なんで?
ダメなのか?
気が変わったんだ。ただそれだけだ。
ミツナにとってものすごいチャンスだってわかるだろ?
それをミツナが理解してやる気になることの何がダメ?
どうして俺がそれを嫌がる?
俺は――。
その時、今日はとてつもなく忙しいんだろうマネージャーから再び電話が来た。
『もしもし? 何度も体調がすぐれない時に申し訳ないです』
「……いえ」
『今日はミツナは急遽なのですが宿泊することになりまして』
「……え?」
『撮影で地方に来てるんですが、そのまま別の仕事で別の場所に飛ぶので自宅に戻る時間がもったいないと』
「あ……えぇ」
泊まり、なのか。そしたら今日は会えないんだな。
『なので、今日は……あ。ちょっと待ってください。ミツナが話したいことがあるようなので』
「え?」
心臓が大きく、ドクンと音を立てて、胸が苦しくなった。
『……もしもし』
電話越しに聞くと低音がよく響いた。でもいつもよりも声を低くしているのか、それともマネージャーに聞かれないようにと声を小さくしているのか、電話越しに聞くその声は少しだけザラついていた。
『今日、戻らないから部屋、好きに使っていいよ』
「あ……うん」
『それでさ』
「うん」
もうそしたら、俺はお払い箱になった……んだろうな。
ミツナはぶっきらぼうで、たまに粗暴で、たまに雑で、でも子どもみたいに笑って、はしゃぐことがあった。そして不器用で、優しい。
優しいから俺に気を遣っていったんは断ったのかもしれない。バーナード氏からの申し出を。自分から俺にこの三ヶ月密着の仕事を頼んだからって。スタジオも辞めさせてしまったしって。
けれど、俺が昨日、いいのか? って、訊いたから。大きなチャンスなんだろう? って尋ねたから。
『そのバーナードっていう人、日本に来るんだってさ』
「え?」
『俺が引き受けるって言ったら、契約とかもあるし、俺と直に話しとかしたいから、来るんだって』
よっぽど、なんだろうな。
『明後日……だから、部屋、好きに使ってかまわないよ。全然いつもみたいに使っててよ。気にしないでいいからさ』
そんなすぐに? 来てくれるのか? 多忙だとあんなに言ってたのに。
「そっか」
でもそれだけの価値がミツナにあるということだ。どうにかしてでも、今、撮りたいと思わせるんだ。ミツナっていう存在が。
すごいことじゃないか。
そんなとんとん拍子に事が進むなんて。
もうこれでトップクラスの仲間入りだ。
でもそれだけの魅力があるっていうことだよ。
頑張れ。
応援している。
そう言わないといけない。
「じゃあ、体調崩さないようにしないと」
けれど口から出た言葉は励ましの言葉ではなくて。応援の言葉でもなくて。
『俺さっ、あんたにちゃんと、』
そこで誰かが電話の向こうでミツナを呼んだのが聞こえた。
「呼ばれてるんじゃないか?」
『あ……』
「おやすみ」
『悠、』
電話をしていられなかった。
「っ」
ミツナが子どもみたい?
違うだろ。
子どもみたいなのは俺の方だ。ガキなのは俺の方。
――俺さ、あんたにちゃんと。
その言葉の続きを聞きたくなかったんだ。
あんたにちゃんと言ってなかったけど、頑張ってくるよ、とかかな。もしくは、ちゃんと言ってなかったけどやっぱり引き受けることにしたから、今までありがとう、かもしれない。
どちらにしてもあまり聞きたくなくて、俺は咄嗟にそれをかわそうとしてしまった。
子どもみたいにイヤイヤをして電話をとにかく切ってしまったんだ。
「……」
ミツナを取られてしまったって、子どもみたいに思ったんだ。
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