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第57話 ゴミ箱(実紘視点)

 ここは何かがおかしいんだと気がついたのは、学校にもまだ通っていない幼い頃だった。  ――すみません。少しおうちの様子などを伺えますか?  そう言って知らない人が何人かぞろぞろとうちにやって来た。母はその人たちにペコペコと謝りながら、大丈夫大丈夫、だいじょーぶ、と答えてた。  俺はなんだか不思議でずっとその人達を眺めてた。  なんなんだろう、あの人たちは。  部屋の中をじっと観察してる。  その表情が少しだけ険しいのはなぜだろう。  お母さんにたくさん質問している。  質問をしながら、その人たちは咳を何度もしている。  具合が悪そうだ。  具合が悪いのはそっちなのに、どうして僕に訊くんだろう。  ――大丈夫?  やってきた人達の一人が俺の前にしゃがみ込んで、目線を合わせながらそう尋ねた。  何もどこも痛くないのに、怪我もしていないのに、そう尋ねられて、ガキながらに思った。  あぁ、僕はこの人たちになぜか心配されるようなことになっているんだ、と。  それからしばらくはわからなかった。自分は確かに「大丈夫」ではないんだと気が付いたのは小学校に上がるまで。  ――実紘君って、なんか……変な匂いがする。  そう言われることがたまにあった。なんでだろう。何か変なのかな。けれどしばらくその匂いの理由なんて思いつきもしなかったんだ。なぜならそれは俺の日常だったから。  けれどわかる時がやっぱり来る。  ――どうぞ、上がって。実紘君。  友達のうちに呼ばれたんだ。遊びにおいでよ、と同じクラスの男子に誘われて、うちに遊びに行くと友達のお母さんが笑顔で出迎えてくれた。  そして、そこで知った。  うちは大丈夫じゃないって。  なかったからさ。  その友達のうちにはなかったんだ。  ――ほら、ちゃんとお菓子食べ終わったら、それゴミ箱に捨てておいて。  その友達のお母さんが言ったんだ。それらをゴミって呼んでいた。  そして、俺のうちにたくさん転がっている、部屋中に散らばっているそれらがゴミって。  ――実紘君もたくさん食べてね。  ゴミって、その時、気が付いたんだ。  驚いたっけ。  正常だと思っていたものが全て異常なんだとその時知った。  あの日、たくさんの大人がうちにやって来て部屋を見ながら、隠しくきれずに表に出てしまった怪訝な表情の理由。  大丈夫? と問われた理由。  なんか変な匂いがすると同級生に言われた理由。  全部がその時わかった。  いわゆる、ゴミ屋敷ってやつだった。  母親は片付けができない人だった。いつも何か薬を飲んでいた。病院にしょっちゅう通っていた。どこを患っていたのかは知らない。今思えばあんな生活をしてたんだ。そりゃ体調なんてろくなものじゃないだろう。でも病院とか、コンビニ、部屋の外へ出る時だけは綺麗な服を着てたっけ。コンビニのスタッフにニコニコ笑って、ペコペコとお辞儀をしていた。  部屋でタバコを食うようにずっと吸っている人だった。俺の嗅覚は少し麻痺してたと思う。あの時、やってきた児童相談所の職員なんだろう人たちは何度も咳き込んでいたから。部屋はいつだって埃っぽくて、湿っていた。リビング……っていうのかな、わかんないけど、大きな窓はいつも雨戸がしてあって開けたことはなかったから部屋の中は常に薄暗かった。小さな窓が通路側にあったんだけど、そこから光が差し込む。白いもくもくとした煙が漂い続けてるのがそこだけ見えた。母親のタバコの煙だ。常に吸っていたから、部屋の中には逃れることのできない煙がずっと漂い続けてた。食事はコンビニの弁当がほとんどだった。その食べ終わったコンビニの弁当箱がいつも部屋の中に転がっていた。干したことなんて一度もない布団はいつだって冷たくて、土埃の匂いがしてた。俯いたり、横向きに寝ると砂利が口の中に入るからいつも上を向くようにしていた。だから保育園でのお昼寝がとても好きだったのをわずかに覚えている。ふかふかしていて心地よかったから。  俺はゴミの中で暮らしてた。  中学の後半からはうちにほとんど帰らなくなった。  顔の作りがよかったから。  ニコリと微笑めば女が部屋にあげてくれる。泊まる場所には苦労しなかったから。どんな女のところでも、あの部屋に戻るよりもずっとマシだった。  そして、ぶらぶらとしているところを今の事務所に拾われた。  ――ねぇ、君。  正直、なんでもよかったんだ。学校なんてろくに行ってなかったから学がない。しかも中卒。その中学だって後半は行かないことが多くて、行ってももうその頃には授業をちゃんと聞くなんてできなくなってたし。  だから、声をかけられて、モデルの仕事をしてみないかと言われて、即頷いてた。  衣食住を用意してくれるって言われて、そしたら、うざったい女に泊めてもらう煩わしさももうないしって。  そして、モデル「ミツナ」になった。  かっこいい、キレイと褒められる度に内心笑っていた。どこが? 何言ってんだ、あんた達って。  だって、そうだろ? ゴミの中で育ったんだ。  ゴミの中で暮らす母親から生まれて、ゴミをゴミとも知らずに育ったんだ。  俺もゴミだろ?  だから、ほら、そんな嘘を言われる度に子どもの頃寝ていた布団の感触が蘇る。湿っていて、口を開けて眠ると砂利が入ってくる、あの布団の。  そんなところで育った、こんなゴミがキレイ? 笑える。  バッカじゃねぇの。  誰でもよかったんだ。  なんでもよかったんだ。  その日はカメラマンがホント馬鹿みたいにかっこいいかっこいいって連呼するのが耳障りで、特にイラついててさ。そいつ以外だったら誰だってよかったんだ。ゴミに向かって褒め称える言葉を並べるそいつ以外だったら。  誰だって。だから、適当にその場にいたカメラマンに撮影させたんだ。そしたら――。 「貴方、綺麗だから」  そう言われた。 「でも、やっぱり綺麗ですよ」  そう言っていた。  その言葉は何百回と言われたのと同じ言葉のはずなのに、砂利を噛み締めるような感触も味も喉奥に感じなかった。  そいつが言った言葉だけはちゃんと聞こえた。なんの嫌な味も、ノイズもなく、優しい声で聞こえた。

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