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第61話 美しい陽
「実紘……」
今、何を思っているんだろう。自分のことを言うにはあまりに悲しい言葉を使って過去を打ち明けてるのに、その声はとても優しかった。
優しいから、聞いていると余計に切なくなった。
とても綺麗な笑顔を見せるから、とても悲しくなった。
「綺麗な名前だ」
ゴミなんだと実紘は自分のことを言うけれど、やっぱり俺にはとても綺麗に見えるよ。
「実るっていう漢字に、紘っていうのは、おおづな、とも読むんだよ」
綺麗な漢字だと俺は思う。美しい人の美しい名を、見事な色をした朝焼けの空に綴ってみせた。
「太い綱、紐、広い、しっかりとした、って意味があるんだ」
実紘。
「実紘が、しっかりとした切れることのない綱でたくさん実ある日々を過ごして欲しいって意味で名付けたんだろうな」
過去が苦しいものでも、その瞬間は、彼が息をしてここに生まれたその瞬間だけは、きっと、たくさんの豊かな実りのある日々を過ごして欲しいと切に願われたんだと思うから。
「綺麗な名前だ」
想いの込められた美しい名を持つ美しい人だと。
「実紘によく似合って、」
「好きだよ」
オレンジ色が混ざりだした空に向けて名前を綴っていた指先に実紘の指が絡まって、すぐ横にいた実紘へ振り返ろうと視線を――。
「……」
そっと、唇が重なった。柔らかく触れて、二人だけの空間で、朝日が少しずつ明るく照らし始める部屋で、静かに触れ合った。
「実紘」
とても優しいキスに、丁寧に、柔らかくその美しい名前を呼ぶと、嬉しそうに彼は笑って、コクンと頷いた。
――タバコ、吸う?
あの質問がその時には突拍子もなく感じられて戸惑ったけれど。
あれは、実紘にとって過去の匂いなんだろう。嗅覚は記憶に一番深く繋がってるって、聞いたことがある。その次が音、だったかな。
初めの印象はワガママで、気位の高いモデル、だった。
何もかもに苛立っているように見えた。
「俺の過去知って、引いた?」
実紘がそう尋ねながら、額をコツンと俺の額に当てる。目を閉じると、その睫毛がとても長くて、俺は見惚れてしまう。
「ビビったでしょ? ゴミ屋敷とか。マジで悠壱があの部屋見たら、ドン引きすると思う、今でも、児相の人の驚いた顔覚えてるくらい。たったの五歳とかだぜ? それでもあの顔はすげぇ覚えてる。そんなんだから、俺、掃除とかできないんだ。綺麗な場所に慣れてないっつうか。人として出来上がってねぇから、だから、」
「……」
いつでも言っていた。俺なんか、俺みたいなの、って。
だからそんな言葉を言わせないようにと、鼻先を摘んでやった。
こうしたら、そんな言葉は言えないだろ?
「引いてないし。びびってない」
「……」
「これっぽっちも」
どうだ。
あの人気モデルの、日本で今、男女問わず大人気の「ミツナ」の鼻を思いっきり摘んでやる。
「……」
「誰よりも綺麗だって」
こんなに人気があって、こんなに綺麗なのにどうしてそんなふうに自分のことを卑下するんだろうと思っていた。なぜ、自分のことを大事にしないのだろうと思っていた。
ゴミ、だからだ。
自分のことをそう思っていたから。
―― 笑えるだろ? 俺みたいなの、恋人にしたい奴いると思う? ましてや結婚とか、バッカじゃねぇの。
紙屑をゴミ箱に捨てるのに丁寧に、なんて人はそういない。紙屑を大事に机の中にしまっている人もいない。だから、自分のことも丁寧に扱わないし、大事にもしない。
ソファで寝て、食事も適当に済ませて、全てを雑に。
「最初にそう言っただろ?」
「……」
―― い、ると……思いますよ。
「貴方、綺麗だから」
「……」
「今も変わらずそう思って……あ、え? みつ、実紘? あのっ」
本当に綺麗なんだ。この摘んで赤くなってしまった鼻も、震える唇も、瞳も。
瞳から零れ落ちそうな雫も。
「ちょっ、えっと、強く摘みすぎた? 痛い、か? あ、どうしよ。顔、モデルなのに、ごめんっ、すまないっ」
その涙も。
「バッカじゃねぇの……」
「実紘……」
「そんな優しく摘まれたくらいで泣くかよ」
全部、綺麗だと前から、そして今も思ってる。
「けど、泣いてるだろ」
「泣いてねぇ」
「だって、ほ、」
ほら、泣いてる。
「バーカ」
すごいな。こんなに綺麗な朝焼けは、昔、サバンナで見た時以来だ。
地平線の遥か向こうからゆっくりとオレンジ色が濃くなっていって、満天の星がそのオレンジ色に溶けるように消えていく。少しもったいないような気もする夜空の美しさが薄れてく。次から次へと木を地面を空気さえもオレンジ色をした光が照らしていくんだ。嘘みたいだけれど、その陽に葉が、石が喜んでいるような気がした。
あまりに綺麗なオレンジ色で、自分もそこに今いるんだと思うと感動したんだ。
もうそんな朝は見られないものだと思っていた。
「あんた……本当、バカだろ」
世界はこんなにも美しいのかと、あの時思った。
「悠壱」
今、この腕の中に、あの時と同じように綺麗なものがある。
「実紘」
それへ手を伸ばして抱き締めると、まるで陽に触れたように温かくて、とても心地良かった。
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