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第62話 始まりは

 仕事は丸々三日、オフ、という連絡がマネージャーから来ていた。バーナード氏との撮影のためにスケジュールを三日分前倒しと後にも直したから。そうやってどうにか調節して作った空きスケジュール分が丸々オフになったらしい。だから、この三日が明けたら、今まで以上にしばらく忙しくなるかもしれないとの事だった。  ――大変だと思いますが、また一から一緒にやっていきましょう。  マネージャーからはそう励まされたそうだけど。 「ねぇ、悠壱、このパン焼いていいの?」 「あ、いや、パンは……朝摂ると糖質がすごいから……」 「へー。けど、よく朝にパン食うじゃん」  特に実紘は落ち込んでもいないし、この三日のオフが明けた後の激務に対してうんざりしている様子もなかった。むしろ、楽しそうというか……。 「そうなんだけど……」 「まぁいいや、じゃあ、俺サラダ作る。レタスちぎればいいんだろ?」  むしろ、その、し……。 「ね、悠壱はドレッシング何にする? 俺、胡麻がいい。悠壱は?」  し、幸せ……そう、っていうか。 「悠壱?」 「!」  フライパンでベーコンを下敷きにして焼いている目玉焼きをじっと見つめていたら、突然、超絶綺麗な顔が目の前に出現した。思わず仰け反って驚くと「おっと」と呟きながら、実紘が背中に手を回して支えてくれる。  まるでダンスでもしているかのように。 「なんで、胡麻ドレッシングで真っ赤になってんの?」 「! こ、これは」 「昨日、あんなにたくさんやらしいことしたのに」  それに比べたらこんなスキンシップなんて……って、笑っていた。  確かに、昨夜は本当に、その……だから今もちょっとした拍子によろけるんだけど。それは、それで、これはこれというか。  だって。 「好きだよ。悠壱」 「!」  だってあんまり現実感ないだろ?  あの実紘の相手に自分が、とか、考えただけでも慌てる。抱き締められながら、自分の両手をどこに置くのが最善なのかさえ、今、かなり、迷っているくらいなのに。もう何度も抱かれてるけれど、違うっていうか。この気持ちをその二文字で表してあるのとないのじゃ、全然違うんだ。  そして、しばらく迷ってから、俺の背中と腰を支えるように抱いてくれるその腕にそっと手を置いてみた。 「悠壱」 「……ン」  そして、そっと置いた俺の手は嬉しそうにキスをしてくれる実紘にしがみつくように、キュッと指先に力を込めた。 「カリッカリになったね。ベーコン」 「!」 「カリッカリっていうか、ガリッガリ?」 「!」  半熟の目玉焼きにしたかったんだけど、しっかりと火の通った目玉焼きになってしまった。し、してないけれど、その、キスが長かったから。 「あんまり食わない方が……身体に悪そうだから」 「なんで? 全然美味いよ。つーか、もっと身体の悪いもんしか食ってなかったって言ったじゃん」  実紘は笑いながら、そのガリッガリに焼け焦げたベーコンをにっこりと笑顔で口に放り込んだ。 「あ、ほら、実紘、指」  今日は楽しそうだから、かな。珍しく箸の持ち方が前の、合っていない持ち方に戻っていた。それを向かいから手を伸ばして、指先をつまむと、正しい位置にそっと戻してやった。 「……ありがと」  箸の持ち方さえなってない、と笑ってたっけ。  あれは、教えてもらわなかったんだろう。親に。  その正しい持ち方に直した自分の指先を見て、小さく笑っている。あの時、その箸のことを話してくれた時とは違う笑顔だ。寂しそうな苦笑いではなくて、もっと優しい――。 「ね、悠壱」 「?」 「いつから俺のこと好きだった?」 「え?」 「俺のこと、好きって言ってくれたじゃん。あれ、いつから?」  いつからって、そんなの。 「今朝から考えてたんだけどさ、二回目ん時にはもう好かれてると思うんだ」 「?」 「二回目に、あんたとした時」 「!」  二回目に実紘に抱いてもらった時、の。どこかのゴシップ記者に実紘が狙われたことがあった。ちょうど、媚薬の件の後、その媚薬を実紘に飲ませた女性アイドルが捕まって、何か関連があるんじゃないかと疑われて。バラされたくなかったら俺が……っていうあの時。  おかしな話だろ? ただのカメラマンのくせに、その被写体であるアイドルのゴシップをばら撒かれたくなかったら、脚を開けなんて脅し。応じる奴なんていないだろ? 「あの記者を、俺の代わりってあの時、言ってたじゃん?」 「!」  今となっては、もうなんかそれを言われるのも気恥ずかしい。その時は必死だったんだ。もう二度とないって思っていたから。 「あ、あれは!」 「あの時から、かなぁって、俺のこと好きになってくれたの」  もう二度と実紘には抱いてもらえないって思っていたから。 「ねぇ、いつから?」 「な、なんでそんなの」 「気になんの。ねぇ、あの時からならすっげぇ前じゃん」 「別にいつからでもいいだろ。なんでそんなに気に」 「いいじゃん。知りたいんだよ。そうだったらさ、もっと早くにこうしてればよかったなぁって。ねぇ、いつから?」  こんなことが起きるなんて思いもしてなかったから。 「ねぇってば」 「な……」  こんなに無邪気に笑う実紘なんてさ。  こんなふうに見つめてもらえるなんて。 「ねぇ、悠壱」  あの時、空港で見かけた時には思いもしなかった。 「教えてよ」  今でも信じられない。  あの時、一目惚れした彼と今こうしてるなんて。  実紘が予想している「始まり」よりもずっとずっと前から俺は一人で片想いを始めていたなんて。気恥ずかしくて。 「な、内緒」  そう、呟いて隠してしまった。

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