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第67話 変身グッズ
ずっと朝食を食べなかった実紘がこの三日間のオフで食べるようになった。今日でその三日間の休日も終わり。
「ごちそうさまでした」
明日からは今までよりも忙しい日々が始まるってマネージャーが言ってたっけ。
「……ごちそうさまでした」
この三日のオフの皺寄せとして仕事が前倒しされた分とそれから後にも、オフ明けにあるからって。
そしたら、今日はゆっくり明日以降に備えて――。
「ね、悠壱、今日さ」
「うん」
「悠壱んち、行きたい」
ゆっくりするのがいいだろうって。
「悠壱の部屋、行きたい」
思ったんだけど。
独身者向けのワンルームマンションだ。普通の。高層マンションからの絶景があるわけでもないし、豪勢なものもない。駅から少し歩く、しかもその駅だって実紘が住んでいるような大きな駅の一等地、とかじゃない。一人暮らしの男性の至って普通のマンションの一室だ。来たって面白いものなんて一つもない。むしろ退屈だろ。強いていうなら一般人は持っていないだろう高価なカメラがいくつもあるっていうだけ。
「ほ、本当に?」
「本当に」
「本当に来たいのか?」
「もー、それ今日訊くの何回め? 本当に来たい。っていうか、もう来ちゃってるじゃん。あ、あそこ? 青い屋根の。なんかお洒落だね」
「あ、あぁ……え、あ、ちょ! 実! ……紘」
慌てて自分の声のボリュームを下げると、その様子に実紘が笑った。多分、笑った。表情は今わからないんだ。顔を隠してるから。
身バレしてしまわないようにキャップにサングラスとマスク、それから昨日の動物園で買ったハリネズミのマフラー。どこからどう見ても今人気絶頂で、女性からだけでなく男性からも人気で、結婚したい男第一位になったモデル「ミツナ」には見えない。見えない、けれど、抜群のプロポーションは隠せないから逆にこっちの方が怪しくて、職務質問されそうな気さえしてくる。そんな変装中の実紘が青い屋根の三階建てアパートを指差した。お洒落って言ったって実紘の住んでいるハイクラスなマンションに比べたらちっともだ。普通の独身者向けの、ただ新しいってだけの話で。見慣れた景色なのに、そこに実紘がいるだけで少し違って見えるから不思議だ。ここはちょっと写真には撮ったところで使えないんだけど、でも。
「顔見えてないけど?」
「あ、違うんだ。これは……」
咄嗟にカメラのシャッターを切っていた。でも今撮ったのは仕事用のじゃなくて。
これは、ここに、俺のところに実紘が来てくれたっていう感じが嬉しくて、自分用に、なんというか、記念というか。
「あ、こら! 実紘! ここで」
「いーじゃん。一瞬だって。ほら、早く、はい、チーズ」
実紘がマスクとサングラスを取って、キャップも取って、俺の住んでいるアパートの前でにっこりと笑った。「はい、チーズ」なんて仕事では言われることのないだろう掛け声をかけて、飾り気のない、「ミツナ」じゃなくて実紘としてそこで笑っていた。
「撮った?」
「あぁ」
「じゃあ、行こーぜ」
そしてまた変身グッズを身につけると軽やかに青い屋根のアパートへと歩いていく。
ニットキャップにサングラスにマスク。ほぼ顔が見えてない。
その整った美形はこれっぽっちも見えてないのに、それでもどこかしらか漂っている。一般人にはないオーラみたいなものが。
「悠壱ー、早く」
「あ、あぁ」
けれど、そんなオーラを纏っているはずなのに、今まで見た、どのミツナよりも屈託がなくて無邪気な実紘がここにいた。
「親戚の子だって……っぷは」
「だって、仕方ないだろ」
部屋に入ろうとしたところでお隣さんと遭遇した。
「お隣さん、サラリーマン?」
「いや……多分違う」
多分、学生、だと思う。朝たまに遭遇するけれど、一般的なサラリーマンの出社時刻にしては遅い時間に思うから。それから服もスーツではなくて、ラフな普段着にリュックだから。大学生とかじゃないかなって。
そのお隣さんと普段通りに会釈と小さめの声で挨拶だけ交わした。けれどその隣人の男性も気になったんだろう。実紘の方を明らかに見つめてたから。
――し、親戚の子が遊びに来たもので。
なんて、咄嗟に言っちゃったんだ。そして、そのまま急いで実紘を自室に押し込んだ。
「すっげぇ見てたね。お隣さん」
「実紘は目立つから」
変身グッズを取って、ずっと仕舞い込んでいた綺麗なアッシュカラーの髪を手櫛でかきあげる。たったそれだけで、誰もが見惚れるミツナになる様子が不思議で、見惚れてしまった。
「ちげーって、あれ絶対俺のこと不審者だと思ったんだって」
けれど、やっぱり笑い方は実紘だ。無邪気に笑ってる。出会って知った実紘だ。
「そんなわけ、……」
しばらく主人が不在だった部屋は冷え切っていた。帰宅してすぐエアコンを入れたけれど、しばらくはコートを脱げそうもないくらいに冷え切っていて。
とりあえずコーヒーでも淹れようと思ったんだ。寒いから。
「ね、ここ、壁薄いの?」
「ぁ……ど、だろ。隣の音とか聞こえたことは、ないけど」
「寒いね」
「ン」
実紘の手の指先が冷たかった。
「あっためてよ」
その手がコートも脱いでいない俺の服の中に入ってきて。
「……悠壱」
肌に触れると、ゾクゾクした。
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