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第73話 ざわつく胸

「悠壱?」  取られたくない、そんな気持ちが握り締めた手から滲んでいた。もう、前みたいに届かない遥か彼方にいる存在じゃ嫌だって思ってしまった。 「……あ、ごめ」 「どっか体調悪い?」  少し前ならそんなこと思わなかったんだろうか。もったいないとずっと思っていたけれど、実紘に少しでも相手をしてもらえたらそれだけで嬉しいって、そう思っていたけれど。  前に、実紘が代役で急遽仕事に出ていたことがあった。泊まりでの急な仕事で飛行機のチケットが取れなかったから、俺はここに留守番だった。その時はまだ、他の人ではなく俺を夜の相手に選んでくれたって喜べてたのに。  もう今は――。  見ているだけなんて嫌だ。  触れられないなんて嫌。  誰にも譲りたくない。  そんな気持ちをぎゅっと握り締めた拳に滲ませていた。 「なんでも、ないよ」  その手に実紘の手が重なる。  なんでもないんだ。実紘にとっては仕事なのだから。誰に撮られようと。あるのは三ヶ月という期間、彼を捉えたただの俺の我儘なんだ。バーナードよりも優れたカメラマンじゃない俺がダメってだけの話。 「悠壱?」 「あー、いや、その、本当に俺でいいのかなって」 「は?」 「バーナードの腕があれば実紘のすごい表情が撮れるだろ? そしたら、ほら、実紘だってもっと有名に、いや……有名になるとかじゃなくて、実紘の魅力がもっと皆に伝わる」 「……何」 「実紘のいいところがさ」  好きな人の幸せが一番。 「周囲にも伝わったら、俺も嬉しいし」  愛しい人の幸福を願うのが本物。 「だって、本当に実紘はすごいし」  本物の気持ちは、そういうもの。 「それをバーナードなら」 「それ、本気で言ってる?」 「……」  あぁ、嫌だな。俺に固執してくれる実紘に喜ぶ自分がいる。実紘が駄々をこねてくれるだけでささくれ立った気持ちが滑らかになっていく。  けれど、それではダメだっていうのもわかってるんだ。  だから、俺はそうやって俺のところに留まってくれることに喜びながら、その実紘の気持ちだけで満足をしないといけない。そして、それではダメだって諭して、バーナードと組むことを勧めないといけない。  それが一番だ。  でも、そしたら、きっと実紘は怒るだろう。  怒ってくれると思う。  なんであんたじゃだめなんだって。  自分で俺を選んだんだって言ってくれる。  あんたじゃなきゃって……。  あんたじゃなきゃ……って、思ってくれるだろうか。  だって俺を選んだのはなんとなくそこにいたから、だろう?  あの時、寒い冬の教会でちょうど同じタイミングで撮影をしていたからだろう?  実紘を撮っていたカメラマンがあまり気に食わなかったから、その場にいた同じようにカメラを持っていた俺を『ちょうど良く』見つけたからなだけ、だろう?  俺だから選んだわけじゃない。  俺が運よくその場にいたからってだけ。  あそこに他のカメラマンがいたって実紘は同じことをしていた。  ねぇ、って声をかけてただけ。誰でもカメラマンなら、じゃあ撮ってよって気軽に頼んでいただろう。  ただの、街のスタジオカメラマン。どこにもでいる普通の。お決まりのポーズをいく通りか撮る日々。結婚式の写真だってある程度構図は決まってる。  俺には特別な、バーナードのようなスキルがあるわけじゃない。  それを言って、実紘にとっての本当の最善を選ばせないといけない。 「悠壱」  喧嘩になってしまうだろうか。喧嘩は、したくないな。 「俺を撮影のカメラマンに起用したのは、偶然だったろ? けど、バーナードはそうじゃない。マネージャーだって、事務所だって大喜びで彼を選ぶ。偶然とかじゃない」 「……」  俺は運が良かっただけだ。 「それに、実紘もバーナードが撮った自分の写真を見たら驚くと思う。本当に凄かったよ。バーナードがくれたんだ。一枚、それを見たら」 「は? 何言ってんの?」 「あんまり興味なかっただろ? 自分を撮った写真」  いつもそうだった。撮ったものを普通は皆、確認したがるんだ。自分はどう写っているんだろうって。でも実紘はあまりそれをしなかった。それは最初からのことで、今もそうだ。自分が撮られた写真をあまり見ようとはしない。自分のことを好きではなかったからなんだと思う。いつも自分のことは認めようとしなかったから。  けれどきっとバーナードが撮った自分を見たら、それは変わる。  こんなに綺麗なんだと、こんなに美しいんだと、知らなかった魅力に驚くと思う。  そのくらい彼が切り取った瞬間の実紘は――。 「あんた、バッカじゃねぇの」  その声は本当に呆れているようだった。溜め息混じりで 「あのおっさんが悠壱に何を言ったのかは知らないけどさ」 「……」 「ねぇ、カメラってある?」 「え?」 「俺の写真見せてよ」 「あ、バーナードのはプリントしてあるものをもらったんだ」 「それも見せて。けど、悠壱が撮った俺の写真の方を見せて」  そう言って差し伸べられた手。 「悠壱」  俺の名前を呼んだ実紘は、少し苦笑いを浮かべて、撮影でセットされた前髪をクシャりとその手で掻き乱した。

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