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初旅行編 1 たからもの
実紘はいつも唐突だ。
「え? 旅行?」
頬杖をつき、子どもみたいな笑顔で、超多忙を極めるトップモデルがそう言い出した。
「そ。オフもらったんだ。なんと一週間。マネージャーがさ、仕事頑張ってるからって」
いや、実紘よりもマネージャーの方がいつでも唐突なのかも……しれない。
「だからさ、旅行、行こうよ」
そう言って、実紘は世界で一番……だと、俺は思っている笑顔をこちらに向けて、アッシュカラーの髪をかき上げた。
実紘のモデルとしての仕事は格段に増えた。それにつられて、俺の仕事も増えてきて。おまけに俺の場合はファッションカメラマンっていうまだ慣れない環境のせいもあり手間取る部分も多くて、尚更、毎日が多忙だった。
すごく、忙しいんだ。
「……あの」
“何かな? あ、そこ、そのままそこに立っててくれ“
一つ溜め息をついて、指示された場所に立つと眩いライトがそこにだけ集中しているのか、一気に体温が上がっていく。
暑い。
けど、こんな中で実紘は常に仕事をしているんだな。
“おぉ! いいね! その感じ! 素晴らしい表情だ“
全く、この人は……。
“あの、これカメラテストですよね? 立ち位置確認するだけのことなのに、いい感じも何もないかと……“
表情なんて関係ないでしょう? と、英語で伝えて、俯くと、ワガママな一流カメラマンが顔を上げてくれベイビーとジェスチャー混じりに懇願してくる。
身長はそれなりにある方だから、特に今日は女性モデルを使った仕事だから、俺の身長がちょうどいいんだろう。
ただからかってるんだ。
立ち位置確認に表情なんて関係ないし、まぁ、顔の位置、高さは確認するだろうけれど、それだって、彼ならとても簡単に把握できるはずだ。
“あの……向こうに戻らないんですか?“
パシャリとシャッターを切る音がした。
“んー? 向こうとは?“
ファインダー越しにこっちを見つめながら笑ってる。
“アメリカですよ。ミスターバーナード“
“! その言い方! ミスター! セクシーで興奮するなぁ!“
いや……こんなスタッフに囲まれた中で興奮されても。会話すら丸聞こえなんだから。
もう一つ溜め息をついて、今度はちゃんとご所望の角度へ顔を上げてやると、上機嫌で何度かシャッターを切り始めた。バーナードは最先端を好むからカメラだってデジタルのものだ。たまにアナログの風合いには勝てないとフィルムカメラを使っている人もいるけれど、彼はデータ派だから、いくら撮ったって消費されることはない。それでも撮りすぎなほど。遊んでいるんだろう。
まだ俺みたいな一般人を撮りたいと思っているらしい。
“たまに帰ってるよ?“
“そうなんですか?“
“あぁ、とても多忙を極めるトップカメラマンだからね“
“……“
“なんだ、失礼だなぁ。その沈黙“
“いえ……多忙を極める、と言っていらっしゃる割にはよく見かけるなと“
“こっちに来たら必ず君に会いに来ているからね“
“……“
“何が楽しんだ? って顔をしている“
そりゃ、そうもなる。一流カメラマンに見初められるほどの何かが俺にあるとは到底思えない。本来なら、この場所にいるのさえ不思議なくらい。ただのスタジオカメラマンだったんだから。
今でこそ特殊な環境に身を置いているけれど、そもそもはただの一般人。人を惹きつけて離さないような「魅力」なんてものは持ち合わせていない。
実紘のような。
“!“
その瞬間、高速でシャッターを切る音が聞こえた。
“君はもう少し自覚した方がいい“
自覚ならしていると思う。
“たまに、一瞬だけ、すごいものをチラリと見せてくれる。それをもっと近くで、ちゃんと見てみたいんだよ。貪るように見つめてみたい。きっと最高なんだろうな“
一応、俺もただのプロだから。
彼が忙しなく切り取ろうとしている瞬間がどんなものなのか。
「お疲れ様でーす」
その時だった。スタジオにアシスタントディレクターの声が響き、今日、バーナードに撮ってもらう海外でも起用されることが多くなった女性の中ではトップランクのスーパーモデルが入ってきた。
迫力満点だ。
長い手足に、小さな顔。そして勝ち気なだけでなく、アジア人独特の色気の混ざった表情。彼女をメディアで見かけない日はないかもしれない。インターネットにもテレビにも、そして街頭にも溢れてる。
“それじゃあ、俺はここで……“
“あぁ、あり、“
「おい! バーナード!」
今度は実紘が入ってきた。
そして、その瞬間、このスタジオの温度と熱気がぐんと上がった気がした。ここにいるスタッフ全てって言ってもいいだろう。全員の視線がスタジオの出入り口へと注がれる。
日本で注目されている男女トップモデルがそこに並んでいるんだから。かたや海外進出、かたや、記録的ヒットを飛ばした写真集を得て、メディアへの露出を選べる立場まできたトップモデル。
並ぶと絵になりすぎだ。
「あんたなぁ。マジでそのうち誘拐犯って通報するからな」
「おや。マネージャーには許可を取ったが?」
「悠壱に関しては俺の許可が必要なんだよ! 俺のなんだから」
「わかってる。もう返してあげよう」
「悠壱は物じゃねぇよ!」
バーナードは肩をすくめる外国人らしい仕草をわざとして、セットの真ん中にいた俺へと「さぁ、どうぞ」とて招いてみせた。
“今日はありがとう。いいものが撮れたよ“
“データ、消してくださいね“
笑顔で黙秘をされてもなぁ。
「だから! 俺にわかんねぇ英語で会話すんなっつうの! 返せ!」
「わぉ、じゃあ、悠壱また明日。明日もここで撮影なんだ」
「わぉ、じゃねぇ! そんで、明日から俺と悠壱はオフだから!」
実紘のイメージ崩れすぎじゃないか? それに――。
「ったく、あいつ、本当に。それに悠壱、あんたもさぁ」
スタジオを出ると声がよく響いた。実紘はどこを取っても人の目を惹きつけるようにできているんだろう。声すらよく通る。歌だってうたわせたら相当な気がした。
「って、何笑ってんの?」
「いや……だって」
だって、俺のものだって、返せってさ。
バーナードにはあんなに俺を物扱いするなと言っていたくせに。一番そうしているのが実紘だから。
「明日からの旅行が楽しみだなぁって思っただけだ」
一番俺をもの扱いしてる。
世界で一番大事な宝物のように、それを誰にも渡さないと抱き締めてもとから離そうとしない子どものように、手をぎゅっと繋いで。
「ただそれだけだよ……」
そう言って笑った俺の声も二人っきりの廊下に響いた。
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