84 / 108

初旅行編 3 遠足

 そんなに遠くの宿じゃないんだ。  有名人の実紘が公共の乗り物で移動するのは疲れるだろうから、車移動にした。俺のだから、ちょっと大人気モデルが乗るには普通過ぎて申し訳ないけど、それでも実紘は嬉しそうで。  出発は、昼くらいでいいかなって。  三泊もするから。  多忙すぎる仕事で疲れも溜まってるだろうし、ゆっくり出発すればいい。  とにかく、ゆっくり――。 「……ん」  そう思ってた。  だから朝もゆっくり寝ていればいいって。 「……実紘?」  そう思ってたんだけど。 「実紘?」  キングサイズのベッドの上、寝転がって遠くにいるのかとシーツをまさぐったけれど、どこまでも実紘へ辿り着かなくて。目を開けたら、ベッドの半分は空っぽになっていた。時間は。 「……」  まだ朝の六時。  朝、弱いはずなのに。昨日だって結局、マンションに帰ってこれたのは日付が変わるギリギリだった。そのまま明日から旅行なんだ早く寝てしまおうって、二人で一緒にベッドに入ったはずなのに。  いったいどこへ? 「……?」  クローゼットが開けっ放しになってる。  部屋のほうからは物音も。 「実紘?」 「あ、悠壱、おはよ」 「……」  昨日、寝たのは一時すぎだったはず……なんだけど。  時計は……壊れてない。リビングにある時計も寝室にあるのと同じ六時前の時刻を示してる。それに。 「あのさ……三泊、国内旅行だったと思うんだけど……」 「うん。そうだけど?」 「……」  でも、その割には荷造りしてるスーツケースが大きい。海外旅行にでも変更になったのかと思った。  それに実紘は普段そんなに荷造りらしい準備はしないんだ。国内ならよく撮影であっちこっち飛び回っているけれど、毎回、本当に身軽で、必要なものなんてその場で買えばいいって言って、ほとんど手ぶらなのに。 「サービスエリアで飯買うじゃん? 本当は駅弁とか食いたいけど、駅使わないからさ。お菓子は車ン中で食う用に。そんで飲み物とかもさ……悠壱?」  それはまるで遠足に大はしゃぎの子どものよう。  ワクワクした気持ちもその鞄の中に詰め込もうとしたらたくさんで、溢れてしまったかのよう。 「モデルなのに、そんなにお菓子持ってくのか?」 「言ってんじゃん! 俺、食事気を付けたことないって」 「最近はちゃんとしてるだろ」 「それは悠壱が作ってくれるから食べてるだけ。あんたが作ってくれるのが一番美味いもん。だから、コンビニとか、外で食わなくなっただけだし」 「うん」  笑ってしまった。  あまりにも。 「俺、これ以上太ったらイヤなんだけど」 「はぁ? あんなエロくて、ほっそい腰してるのに?」 「エロくないよ」 「エロいって、そんで、これは絶対に持ってく!」  そう言って実紘が手に取ったのはこの前雑誌で見かけて買ってみたらとても美味しかったピスタチオソースを挟んだパイだった。それを食べてる時の笑顔が可愛くて何枚も写真に撮ったっけ。唇の端にパイの欠片をくっつけ笑うのがあどけなくて、とても気に入ってるんだ。 「俺も、それは食べたい」 「!」  実紘が目を輝かせた。 「でも、スーツケースの中に入れてたら移動中食べられないし、こんなに大きいスーツケースじゃなくていいだろ。車の中がいっぱいになる」 「え!」 「?」 「もう少しスーツケースでかくしようと思ったんだけど」  びっくりした。そして、素直で無邪気にこの旅行にはしゃいでる実紘が愛しくて、思わず笑った。 「そんなにいらない」 「えー? けど、だって」 「二人っきりでいられたら」 「……」  準備でよくこんなに部屋の中を服でいっぱいにできるなぁ、って口元を緩ませながら、床に散らばった旅行グッズを手に取った。  車中でもリラックスできるように? 肩たたき?  いつの間にこんなもの買ったんだろう。 「だから、」  実紘の前に陣取って座り、顔を上げたら。 「……俺も」  実紘が嬉しそうに笑ってキスをした。手をついて、首を傾げながら前のめりになって。 「悠壱と丸々三日、二人っきりになれるの、すげぇ楽しみ」  言葉が出ないくらいに綺麗に微笑みながら。 「あの日以来じゃん? 雪のさ」  やっぱりいつでもカメラ持って歩いてたくなる。  それがうちの中でも。 「誰にも邪魔されないでさ、ほっんとうに二人で過ごすの」  いつでもカメラを向けられ続ける実紘に少しでもプライベートではゆっくりして欲しいと、最近はカメラをうちの中では持ち歩かなくなったんだ。あの時はそういう「ミツナ」の丸ごとを写真に収めるのがコンセプトだったけれど、それも終わったし。 「すげぇ……楽しみ」  けれど、こういう時は失敗したと悔やむんだ。 「つうかさ、なんで悠壱、キスの時、目閉じないの?」 「だって……」  写真に切り取って、一生眺めていたいと思うから。 「いつでも実紘のこと見てたいから」  そんな美しい人を丸三日、本当に独り占めできる旅行なんて、本当は俺こそ、なんだ。 「俺、そん時の悠壱の表情すげぇ好き」  俺こそ、どんなに大きなスーツケースからもはみ出して溢れるほど楽しみで仕方がない。 「その顔見たくて、何度でも、キスしたくなる」 「じゃあ、たくさん見て」  この旅行が。 「三日間、たくさん……」  そして、今度は俺から、旅行の間もたくさんできるだろうに、今したくて、そっと、ちょっとだけでもと、その唇にキスをした。

ともだちにシェアしよう!