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初旅行編 9 白樺の散歩道

 多忙な実紘にも一日オフの日くらいはある。  そんな日はできるだけたくさん寝ていて欲しいから、いつもそっとしておくんだ。朝早くに起こすことなんてしない。でも、今日は――。 「……」  寝室には大きなサイズのベッドが二つ並んでいる。それなのに、ひとつは使うことなく、だいの大人が二人して同じベッドでくっついて眠ったりして。ベッドルームが二つあるスイートを予約したくせに笑ってしまう。  これじゃ、ベッド四つどころかひとつあれば充分じゃないかって。  だから手を伸ばせば触れるところに実紘がいて、ほら、今だって実紘のわずかな寝息すら聞こえる。  そして、そのぐっすり眠る実紘へと手を伸ばした。  起こしてしまっていいのかな。  でも、ぐっすり眠っているし。  寝かしておいてあげた方がいい。一昨日まで大忙しだったんだから。  それに、寝顔も綺麗だからもう少し眺めるためにもそっとしておこうか。  うっすらと開いてる唇を見つめながら、どうしようかと考えた。  実紘の寝顔、もう何度も毎日見ているのにどうして飽きないんだろう。  こうなる前は見たことも、想像もしなかった、あどけない隙だらけの寝顔。  やっぱり、もう少しの間、寝かせておいてあげたほうが……。 「……おはよ」  触れてしまう寸前で手を引っ込めようとしたら、実紘が目を覚ました。  黒い瞳が部屋いっぱいに降り注ぐ朝日に輝いて、目の前に差し出された俺の手を取るとそのまま、まるでどこかのお伽話の王子のようにキスをした。手の甲に、唇で触れてから、目を閉じると、そのままその手を仕舞い込むように自分の胸に抱えて、じっとしている俺の腰を自分の方へと引き寄せる。 「悪戯……」 「え?」 「してよかったのに」 「!」  クスクスと微笑み混じりに実紘が呟いた。 「寝込み、襲ってもいいのに」 「!」  寝起きは悪いんだ。実紘はベッドの中でしばらくこうしてぐずぐずとしていることが多い。いつもこうしてベッドの中でぼんやりと寝ぼけているのを寝室の入り口で眺めてたっけ。毎朝、被写体だった実紘を起こして、ベッドから出てくるまで見守っていたっけ。  寝起きの彼は特別無防備で、少年のようなあどけなさと色気があるから、よくシャッターチャンスを逃さないようにってカメラを握り締めていた。  けれど、今日なベッドの中でぐずることなく、俺におはようのキスをすると、パッと起き上がり、実紘の部屋よりももっと更に大きな窓の向こうへと視線を向けた。  窓の向こうには目を見張るような真っ青な空が山の向こうに広がっている。 「すげ……超晴れたね」  あ、寝癖だ。珍しい。  昨日、行為の後、もう一度シャワーを浴びてからすぐに眠ったからだ。それに少し髪を長くしているから。柔らかく、触れると心地良い実紘の髪は伸ばすと少しクセが出るようで、それが表情を更に柔らかく見せている。 「ラッキー」  笑顔が柔らかい。 「すっげぇ、散歩日和じゃん」  そして、そんな笑顔を俺にだけたくさん見せてくれる。毎日、たくさん。それが嬉しくて。 「寝坊助、悠壱。早く、起きなよ」  また、もっと、彼のことが好きになる。 「んもー、マジで言ってよ。すっげぇダサかったじゃん」  長い足で道端の石を蹴りながら、実紘が口をへの字に曲げた。  サングラスをしているのって、まぁ、有名人だとわからないようにって、とりあえずの変装なんだけど。でも、むしろ「俺は有名モデルです」と名乗っているようにも思える。目元だけじゃなく、鼻筋、唇の形、それから、小さな顔に長い指、しっかりとした肩、目元を隠したくらいじゃ、ちっとも隠しきれてない容姿の淡麗さが、余計に際立っているような。  そんな実紘は白樺の林の中を歩きながら、今朝、鏡を見るまでわからなかった自分の寝癖に照れ臭かったのか不貞腐れたような顔をしていた。 「別にダサくなかっよ」 「いや、ダサいでしょ。あんな爆発した頭で」  むしろ、その隙がいい感じだったけど。  でも、本人は俺に見られたのが恥ずかしかったのか、少しだけ頬を染めながら、また大きな声で今朝の自分に怒ってる。  宿から美術館まではあつらえたように白樺並木と石畳の街道で繋がっていた。どこからどう切り取っても写真一枚に綺麗に収まるように計算されたような細い散歩道。  カメラは持ってきたけれど……でも、今撮ると、また膨れっ面になりそうだから、構えることなく持ったまま、のんびりと実紘の隣を歩いていた。 「ダサすぎて、悠壱に呆れられたら、やなんだけど」 「っぷ、何だそれ」 「笑うとこじゃないっつうの」  笑うところだよ。あの寝癖がダサくて呆れる、なんてことあるわけない。それどころかあどけなさがたまらなかったのに。 「ね、悠壱、今日、カメラ、撮らないの?」 「え?」 「いつもなら、仕事とか関係なく、俺のこと撮りまくるじゃん」 「あ……いや」  撮らないんじゃなくて、今、撮るとまたむくれるかなと思っただけ、なんだけど。 「ね、悠壱」 「?」  撮りたい瞬間は。  切り取って、自分だけのものにしたい実紘の表情は、いつだって山ほどあって。 「あのさ」  ほら、今だって、サングラスをしててもドキリとさせる、実紘の色気を写真に納めたくて、自分だけのものにしたくて、ウズウズしてる。

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