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初旅行編 11 しようのない人

「カメラマンの! 佐野、悠壱さん、ですよね?」  声をかけてきたのは、同じ歳くらいの女性だった。ショートヘアの髪が軽やかにカールを描く、アクティブな印象を受ける活発そうな女性。この美術館のパンフレットを両手でぎゅっと握るように持ちながら、こっちの答えを催促するかのように一歩前に詰め寄ってくる。 「えっと……えぇ」 「! やっぱり! あのっ、一度、個展で佐野さんがご在廊の時にご挨拶をさせていただいたことがあってっ」 「ぁ……えっと」 「覚えてないと思います! 私、その時、カメラマンになりたくてっ、専門の学生だったんですけどっ」  たしかに覚えてないし。俺が個展をってことは、動物カメラマンをしていた頃のことだから、もう何年も前だし。 「すごく憧れてて、今は違うジャンルへ行ってしまわれたから、少し寂しいですが……あ! 動物カメラマンの! 頃の! 写真集全部持ってます! 今も見返してます! 毎日」 「ぁ、えっと」 「今も見返してます! 毎日」 「ぁ、うん。聞こえた。そうじゃなくて、あの」  俺が聞き取れなかったんだと思ったんだろう。彼女は更に大きな声でそう告げると、またパンフレットをぎゅっと握りしめた。その、ありがたいことに憧れていてくれたんだと思う。そんな憧れのカメラマンに偶然に遭遇できたらテンションはたしかにこんな感じになってしまうかも、しれないけれど。 「あの……ここ、美術館だから」 「あ!」 「静かに」 「は、はいっ」  彼女は、その自身の返事もまた大きかったと慌てて口をぎゅっと結び、握りしめていたパンフレットで口元を隠した。 「す、すみません……」  そうたくさん人はいないけれど、だからこそ大きな声でのおしゃべりが異様に目立ってしまう。辺りから向けられる視線がとにかく痛かったんだろう、彼女は殊更肩を小さくすくめて、入りきるわけもないはずのパンフレットを隠れ蓑にしようと丸まった。 「写真、今でも見てくれてありがとう」 「!」  動きが大きくて大胆な子だ。パッと顔を上げたり、慌てて俯いたり、その度に少しクセのある短い髪が揺れて、さらに彼女の動きを大きく見せる。 「ぁ……いえ」  声が小さくなると動きもだんだんに小さくなるのか、頬を真っ赤にして俯いたまま、パンフレットで顔を半分だけ隠しながら首を横に振った。 「す、すみません。美術鑑賞をなさってる時にお邪魔してしまって」 「いや、いいよ。少し驚いたけど。でも、当時の写真を今でも好きでいてくれるのはありがたいから」 「!」  にっこりと微笑むと、彼女の頬がさらに赤く染まっていく。 「いえ……あ、あの、えっと……本当に専門生の時から、ずっと憧れてました。す、すみませんっもしご迷惑でなければ、あの、握手だけでも」 「もちろん……」  彼女はまたきゅっと肩を小さくすくめながら、自分の掌をじっと見つめてから、その白くて華奢な手をこっちへ――。 「握手。はい」  低く、凛とした、けれど、少し突き放すような声。 「……ぇ?」  彼女は差し出した手を掴む、その長い指をじっと見つめてから、顔を上げて、目を見開いた。  そりゃ、驚くだろう。  目の前にはサングラスをしていてもわかる一般人とは違うオーラを放つ男が立っていて、自分の差し出した手を握っているんだから。しかも――。 「知ってる? モデルのミツナ。はい。握手」 「え?」 「じゃあね」  実紘はパッと手を離すと、反対の手で俺の手を掴み、そのまま足早にその場を立ち去った。 「実っ、紘?」  足の長さが違うんだ。 「待っ」  そんなに大股で早歩きをされると、こっちは駆け足をしないと置いてかれてしまう。 「待っ、と、わっ、急にっ」  と、思ったら、急に立ち止まるから慌てて、けれど結局体当たりしてしまった。 「もう大体見た?」 「え? あ、あぁ、まぁ、大体は」  それに分野は違うから、勉強とかそういうわけじゃない。興味深いというか。 「そっか」  そもそも散歩としてここには来たわけだから。  頷くと、手を離すこともなくそのまままた歩き出してしまう。人のあまりいない美術館、鑑賞するには急ぎすぎな足音が二つ。美術館の中を走っていく。 「実紘?」  そう大きな声で名前を呼んだのは美術館を出てから。 「俺、心が超狭いからさぁ」  行き、のんびりと散歩を楽しんでいた白樺の小道を帰りは急足で、指を絡めて手を繋ぎながら帰る。 「この旅行の間くらいは悠壱のこと、独り占めしたいんだ」 「……」  何を、言い出すのか。 「ね? いいでしょ?」  いいも悪いもない。  この旅行の間くらいって。 「悠壱は知らないだろうけど……」  周りを人に囲まれ、いつだって誰かが求めて、触れたいと願って、声を聞いてみたい、視線を交わしたいと思われているのは実紘なのに。俺はいつもその羨望の真ん中にいる実紘を、端から眺めながら、独り占めできたらいいのにと願いながら、カメラを構えているのに。  もうずっと、ずっと……。 「俺みたいなさ」  ずっと。 「過去に何かしら闇ありそうな奴に好かれると、大変だよね。執着、ハンパないから」  知らないのは実紘の方だ。  そう言って爽やかな風に髪を靡かせるこの綺麗な人に執着してる。人生丸ごと急転回させて会いたい一心で全部捨てるような、しようのない人間だと。 「ごめんね? 旅行の間だけ我儘させてよ」  知らないのは実紘の方だ。

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