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二人で媚薬 6 笑顔
小さな物音がした。
「……ん」
遠慮がちな音が僅かに。
その音にモゾモゾとベッドの中、隣へと手を伸ばして。
「……実、紘?」
そこにもう俺に馴染んだ体温がなくて、名前を呼んだ。
「ごめん。起こしちゃった」
「……」
小さな声が背後から聞こえて、振り返ると、ちょうどコートを羽織ろうとしている実紘がいた。
「起こさないで行けるかなって思ったのに」
残念、と呟いて、着ようとしていたコートを腕に引っ掛け、ベッドの端に腰を下ろして、まだ寝ぼけている俺の頭にそっとキスをくれる。
「ぁ……今日、撮影」
丸々二日って言っていた。
「そ、夜、九時くらいには帰るよ」
特別出演のドラマの撮影って。短期集中で撮ってしまうからって。
「悠壱は今日、打ち合わせでしょ?」
「うん」
「動物園の、だっけ」
「そう」
依頼されたんだ。「ミツナ」の専属カメラマン兼パートナーっていうことで多少有名になった日本人カメラマン。その経歴を見てくれた動物園関係者から連絡をもらった。撮影依頼の。
コンセプトは、シンプル。
動物園で暮らす動物たちのリアルな日常を撮って欲しいというもの。野生動物ばかりを撮っていた俺には少し驚く依頼だった。
今日はその打ち合わせ、第一回目。
向こうもこんな企画初めてだからどう進めればいいのかさえ戸惑っている様子で。特に焦っている感じでもなかったし、多分、今日は顔合わせ程度、かな。
「まだ打ち合わせの段階だよ。動物相手は何年も撮ってないから、断られるかもしれないし」
「悠壱に撮ってもらって喜ばない奴いないでしょ」
「相手がライオンやシマウマでも?」
「そう」
静かに笑って、実紘が俺の向こう側にある時計を確認した。
朝、早く出発なのに、引き留めるように話してしまった。
「そろそろ行かないとだ」
「マネージャー迎えに来てくれるんだっけ?」
「そう。まだ初心者だから一人はダメって」
「うん」
それに高速も使うから。何かあってからでは、とマネージャーが危惧してくれたんだ。
「それに悠壱が一緒じゃないなら運転しても楽しくない」
「そんなことないとは思うけど」
「行ってくんね」
「あ、じゃあ」
「いいよ。寝てて。まだ悠壱は早いっしょ」
実紘はそこでコートを腕に抱えたまま、さっと立ち上がり、部屋を出ていった。寝室の扉を閉めて、そこから、鍵を手に持ったんだろう金属音。革靴の軽やかな音。そして、扉を開けて締める、優しい音。行ってきますって小さく囁くように、扉がパタンとしまった。
「……」
見送ったのに。
でも、見送ると、名残惜しいとか言い出しそうだな、今の、俺。
「……俺も、起きよう」
昨日は、セックス、しなかったから。「ミツナ」の仕事がかなり詰まってたから、そんな雰囲気を醸し出してる場合じゃなかった。朝が弱い実紘のためにすぐに出発できるよう準備して。
「あ、朝飯、ちゃんと食べたんだ……」
冷蔵庫にはバランスの取れたサラダを用意しておいたけれど、その皿のあったスペースが空っぽになっていて、その皿は洗われて、元あった食器棚に戻っていた。
「……全然気が付かなかったな」
以前は、朝の九時なんて実紘には早朝みたいなもので、起こしてもらわないといけなかった。その役をマネージャーから引き継いで俺が起こしていたくらい、だったのに。
「朝、弱かったのに」
それはとても良いことだろうに。
「……」
少し、なぁんだ、と思う自分がいて。
よくないなと、自身を叱るように、眉間に皺が寄ってしまった。
街中には「ミツナ」がそこかしこにいる。
今も、目の前、縦横無尽に走る縞模様の大きな交差点で、上を見上げれば、超巨大画面には、最近よく見かける「ミツナ」主演のコマーシャルが流れている。
それを眺めながら、ここに「ミツナ」がポツンといたら騒然とするだろうな、なんて考えた。
もちろん、そんな「ミツナ」のプライベートで、パートナーがいるというのは有名なことになったけれど、俺一人で歩いていれば、俺だけでは騒がれることなんてなくて、変装もせずにブラブラと歩いていられる。
ミツナは、屈託なく笑うようになった。
明るく笑って、その長い手足で、なんでも、ひょいって飛び越えていきそうな軽快さがあって。
以前の「ミツナ」は外見だけだったのに、そこに内面がプラスされ表情が豊かになったことで、年代問わず、性別問わず人気になった。何事も隠すことなく素直に話してしまうところもまた人気の要因なんだと思う。
この間も、パートナーとの仲を問われて、嫌な顔もせず、仲良くしていますって答えてたっけ。
「……」
その笑顔が素敵だったと、またそれも話題になって。
昔の「ミツナ」ならしなかった笑顔。話し方。
今の「ミツナ」の笑顔、話し方。
でも、それは少し前までは――。
「! っと、電話っ……すみません。今、向かってるところですが、時間」
まだ、待ち合わせの時間には余裕があったはずだけど、と、今日、打ち合わせ予定の相手からの電話に出ながら小走りになった。
ダメだな。
実紘のことはついじっと見てしまうから。
『あ、いえ、電車が遅れてるみたいで、少しだけお待たせしてしまうかもしれないので』
今、多分、駅のホームなんだろう。電話の向こうで、状況を説明している駅員のアナウンスが漏れ聞こえてきてた。
「大丈夫ですよ。ゆっくりお待ちしてますから」
『申し訳ないです』
けれど運よく電車が来たらしく、十分ほど遅れますと言って、そこで電話は切れた。
「……」
今日は顔合わせだけだから、予定しているよりも早く帰れるかな。
「あ、ミツナだぁ」
「かっこいー」
通り過ぎる時、そんな声が聞こえた。
振り返れば、さっき見上げていたコマーシャルがまた流れていて。
「パートナー、うらやましー」
うん。そう、羨ましがられると思う。
けれど。
俺は少し愚かなくらい「ミツナ」に夢中だから。
あの大画面に映る笑顔は、前は、俺しか見たことのない笑顔だったのにと、その笑顔を見せてもらえる他人のことを妬んでしまうんだ。
本当に、愚か者になれるくらい、「ミツナ」に、実紘に、夢中だから。
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