111 / 117

ハッピーバレンタイン編 3 駄々っ子

 昔は海外にばかりいて、日本にいることが少なかった。  タンザニア、エクアドル、ブラジルのパンタナール。一年のうちで日本にいる期間の方が少なかったくらい。パンタナールは良かったな。豹が、好きだったから。  ファインダー越しの彼らを捉えられていると、たまらない高揚感があったっけ。もう一生ここから彼らのことを覗き見て過ごしていたいとか思ったくらい。  そんなだったから、一年の季節の移り変わりなんて気にしなかった。雨季だ乾季だって、その程度だった。  そんな生活を終えて、人を撮るようになって、とても驚いたのが一年の慌ただしさ、だった。  あっという間に季節が変わっていく。街並みも、流行りも、人も。  タンザニアの大自然の中ではクリスマスもないし、正月もないし、バレンタインだってないから。  その速さには今でもたまに驚くことがある。 「……すごいな」  というより、圧倒される、って感じかな。  思わず、独り言がこぼれるくらいに、目の前は人で埋め尽くされてる。  まるで、ペンギンが寒さを凌ぐ時にするハドルみたいだな、なんて、思った。ぎゅっと固まって密集しているだけじゃなく、ほら、少しずつ動いて人の立ち位置が入れ替わってる感じが、ハドルっぽいというか。  そんなことを考えながら、一つ、深呼吸をした。  甘い香り。  バレンタインのチョコレートの香りがずっと漂っている。  ついこの間まで正月飾りが煌びやかだったデパートの中は赤にピンク、それからブラウンのハートが飛び交うバレンタイン仕様の出たちに変わっていた。  女性ばっかり、かと思ったけれど。  そんなことないのか、今の時代。  ちらほらと男性の姿もあった。  普段ならその店ごとに足を運ばないと買うことなんてできないチョコレートが一箇所に集結しているのだから、男性だって買いたい人もいるんだろう。 「えっと……」  買おうかな、って思って。  実紘はけっこう甘いものが好きだから。  疲れた時は甘いものがいいって言うし。  バレンタインチョコレート。  二月十四日も実紘は仕事だけれど、帰ってきたら渡せるし。その翌日は確か、ほら、スマホで確認してみたら、午後からの撮影になってる。そろそろ佳境を収録するって言ってた。その日は半日で撮影が終わるから、空き時間にセリフをしっかり覚えるようにって。  だから、少しくらいなら夜更かしだってして大丈夫かもしれないし。  そしたら、チョコを渡して、それから少しくらいゆっくりと――。  ――悠壱、もう一回、い? 「!」  一瞬、耳の奥で再生された昨日の実紘の熱っぽい声に、顔が熱くなった。  バカ。  こんな場所で何も昨日のことを思い出すなんて。  昨日はたくさん抱かれたからって。  今、ここで思い出すなよ。もう。  とにかく。  お目当てのチョコレートがあるんだ。ほら、あの一番長い列になっている店。あそこのチョコレートがいい。  ミツナを待ってる間にちょっと調べて、見つけた宝石みたいなチョコレート。ピラミッド型になったカラフルなカラーチョコレートの中にいろいろな果物のジャムが入ってる。甘酸っぱい感じの。  それがいい。 「……よし」  宝石みたいな実紘には、宝石みたいなチョコレートが良いって、思うんだ。  すごい人気の店だった。  チョコ七粒で八千円って。  でも、美味しいらしいから。  ちょっと並んでる間は気まずかったけど。男性がいなくて。  けれど、買えた。多分、喜んでくれると思う。一緒に食べようって笑顔で――。 「ええええ? やだよっ」  仕事帰りの車の中、まるで子どもみたいな口調でミツナが不貞腐れた声で言い放った。その声にパッと顔を上げると、まさに。 「絶対にイヤだ」  不貞腐れてる。 「……仕方ないでしょう?」 「なんで、急にロケなんて」 「ありがたいことにドラマの視聴率がとても良かったからです」 「あ?」  不貞腐れてるというか、もう駄々っ子だ。 「だからって、なんで最終回の撮影を伸ばすわけ?」 「最終回が十五分延長で放送されることが決定したからです」 「で、なんで海外?」 「次、映画化の話も出てるので、そこへの伏せん張りのためです」 「はぁぁ?」 「すごいことですよ?」  マネージャーはどれだけ不貞腐れようが、どれだけ不満な顔をしようが、駄々っ子だろうが、声のトーンを一定にしたまま、こんこんと撮影追加の諸連絡を続けている。 「すごいことだと俺も思うよ」 「はい? 悠壱まで。だって俺、めっちゃ頑張ったじゃん」 「そう、実紘が頑張ったから最終回が延長放送になったんだし、映画化もされるんだろ?」 「えぇぇ? じゃあ、頑張んない方が良かったじゃんっ」 「子ども」 「いや、だって、もうさぁ」  本当に駄々っ子だ。  けれど、昔の、俺が出会った最初のミツナならこうじゃなかった。  きっと本当に嫌な時は何をしようが誰がどんなことを言おうが、絶対にやらなかったし、棘をそこかしこに張り巡らして、誰のことも近づけなかったと思う。けれど。 「もう全然休みないじゃん。海外一週間だよ? そんで、悠壱もいないし」 「仕方ない。俺はミツナの写真集の編集あるから」 「…………」  けれど、今の実紘は。 「そのあと、一週間の休み」 「…………善処します」 「海外から帰った瞬間から」 「………………善処、しま……す」 「なら、頑張る」  そう言って不貞腐れた顔のまま俺の肩に頭を預けて口をへの字に曲げる駄々っ子になった。

ともだちにシェアしよう!