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ハッピーバレンタイン編 7 おかえり

 びっくりした? なんて。  びっくりしないわけがない、だろ。  帰ってくるのは、明日の予定だったんだから。  丸一日も早く帰宅できるほどの余裕はなかったはず。いつもの、モデルとして仕事ならまだ可能だったかもしれない。けれど、不慣れなドラマの撮影に、加えて、聞き慣れない単語が多く並ぶ刑事役。セリフの長回し。ミツナは相当苦戦してたんだ。撮影も常に遅れ気味だった。それが一日も早く終われるわけ。 「めっちゃ頑張ったんだよ。移動の飛行機の中でもずっとセリフ覚えてた」  そんな、だって、海外ロケに出発する前日もドラマの撮影はあったのに。それにうちではいつも通りだったじゃないか。 「NGほぼなし。監督がすっげぇ驚いてたけど、一番驚いたの、多分、マネ。一日早めに撮影は終了。んで、良く頑張りましたのご褒美にマネージャーに一日早く帰れる飛行機のチケット取ってもらった。俺はひとりでチケット取るとか、頭悪くて難しいからさ。しかもエコノミーでさ。バレないかヒヤヒヤしてた」 「え? じゃあ、一人で?」 「そ。俺一人で、帰り一人分の飛行機代パァにしちゃったし。でもさ、運がいいんだか、隣が外国人でさ。俺のこと知らなかったから、ヨユーで大丈夫だった。まだまだ俺の知名度は国内止まりだからさ。世界は広いなぁっつって、あはは」 「なんでっ」  明日には帰って来れるんだから、それでいいだろう? 帰ってきたところから一週間休めるんだし。それなら向こうで一日ゆっくりして、それから、帰ってきて、たっぷりまた休めばよかったのに。わざわざエコノミーで一人で帰ってくるなんて無理しなくても。 「だって、バレンタインじゃん」 「!」  エコノミーじゃ、日々仕事に追われてる実紘の疲れは取れるどころか増すだけだろ。 「知んないけど。もしかしたら悠壱からチョコもらえるかもしれないって戻ってきた」 「それだけのために?」 「そ」  大正解、って喜ぶように、明るく太陽みたいに笑ってる。  昔の少し黒色混じりの笑顔じゃなくて。  色に例えるなら黄色、オレンジ、赤、そんな温かみのある笑顔。 「って、もしかして! 買ってなかった?」  今度は大慌ての顔。  バレンタインって、女の人から渡すのが定番だし、俺がわざわざチョコレートを買ってきてくれるとか、ないか、って、なぜか急にネガティブモードに。 「デパ地下とかすごいんでしょ? 良くわかんないけど。女の人がすげぇ並んでるんだよね。なんか、前にどっかで聞いた。メイクの人だったっけ。すっげぇ行列で目的のチョコレート屋まで辿り着くだけでも大変だったりするって。整理券配ったりもあるんでしょ? あ、いや、そんな贅沢なのじゃなくてもっ、全然、板チョコでも俺、嬉しいし」  今度は、何も言われていないのに勝手にもらえるかもしれないチョコレートをデパ地下の高級チョコで想像していたことを急いで掻き消してる。コンビニでもスーパーマーケットで売っているものでもなんでもって。  実紘って、さ。 「つーかっ、チョコもらいたいだけで早く帰ってきたわけじゃないからっ! 一番は悠壱に会いたかったからでっ」 「……っぷ」 「!」  実紘って、こんなに可愛い、かったっけ? 「笑うこと、ないじゃん」  黒髪の実紘は大人っぽくなったと評判がよかった。ずっと明るい色にしていたけれど、グッと抑えたその髪色はセクシーで色気のある大人の男って雰囲気を漂わせていて。ファインダー越しに見つめるその色気がダダ漏れしているミツナにドキドキさせられていたけれど。 「いや、ごめん」  実紘が海外に行っていた一週間の間、あちこちで「ミツナ」を見かけた。自分が撮影したものが大半だったけれど、大人の色気を前面に出した黒髪のミツナ。その少し前の明るい色の髪をした、東洋人らしからぬ綺麗な顔立ちのミツナ。どれもこれも、造形美が整いすぎて、美しい、って単語が何よりピッタリ来るミツナだけれど。 「買ってあるよ」 「! マジでっ?」 「デパ地下の」 「え? 悠壱が買ってきたの?」  今、目の前にいるのは、笑って、困って、慌てて、怒って。なんだかとても忙しい、少しはしゃいだ実紘だ。黒髪だからかな。  幼く見えた。 「明日、渡そうと思ってた」 「やった」  きっと、ミツナに見惚れている世界中の誰も知らない、子どものような実紘が目の前にいる。 「おかえり」 「ただいま」 「エコノミーじゃ、身体痛くなかった?」 「んー、あんま、身体は丈夫なんだよね。ほら、育った環境が環境なんで。栄養失調になりそうな中でもスクスク育って、背の順、後ろをキープしてたくらい」  俺だけが、見ることのできる「実紘」だ。  俺だけが知ってる、実紘、だ。 「……おかえり」 「? ただいま?」  首を傾げると、艶の増した黒髪がさらりと揺れた。 「……おかえり」  その髪に触れて。 「おかえり」  首に手を添えて。 「……実紘」  そっと口付けた。  実紘の腕が俺を抱き締めて、最近少し暖かくなってきたけれど、今日は寒さが戻ってきたって言っていた。そのせいなのか、コートは冷たく固かった。 「ただいまー」  けれど、そう言って笑った実紘は温かくて、胸がギュッと切なくなった。  早く温めてあげたいと、甘い切なさが胸に滲んだ。

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