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第9話
「どうでしょう?大の大人がこうして二人揃って頭を下げるだけでは物足りないようでしたら、ここは穏便に警察に介入していただこうと思うのですが…。」
ニッコリと笑いながら流れるようにつらつら語る男に気圧されたのか、文句もいう気も失せたのか、男は若干引きながらも矛先を収めた。
触らぬ神に祟りなし。明らかにヤバそうな兄をもつ男にこれ以上絡むのは不味い。底知れぬ怖さがある。
「あ、いやもういい…あんたもそんな弟がいて大変だな。」
「いつまで立っても思春期が終わらないので困ってるんですよ、今回のことできっと懲りるでしょう。貴方にはご迷惑をおかけして、本当に申し訳無い。ほら、お前も。」
「ゴメンナサイ。」
首元を掴まれ無理やり背筋を伸ばされると、無表情のまま謝る。
横にいる謎の男の握力も怖いが、なにより丸く収まりそうなので乗らない手はない。
相手も大林の謝罪に溜飲をおろしたのか…まあ、戦意喪失が正しそうだが。ああ、と言って去っていった。
本来ならばここでホッとしたいところだが、いかんせん横の男がそれを許してくれなさそうだ。
あんた本当にだれなの。
大林はまた一つ諦めの溜息を吐くと、降参するように控えめに両手を上げた。
「君はそうやっていつも火遊びを?」
「いやありがとうだけどあんた誰だよ…。」
「ふむ、わからないか。」
大林は改めてチラリと相手を見た。全く持ってわからない。背丈はゆうに180センチはあるだろうか。大林自身が小柄とは思いたくないが、10センチ位ちがう。何食ったらそんなになんの、と思わずむっとする。
顔立ちは嫌味なくらいスッキリと整っていて、先程のごたごたから周りの視線を集めたものの、おもに妙齢の女性方がこちらを気にしている。おおかた目の前の上等な男の正体が知りたいのだろう。
「あ?あれ?」
「む、どうだろうか」
ふと、なにか違和感を感じた。プレタポルテであろう、上品なスーツに見覚えがあったからだ。
大林が全体を確認しようと数歩下がりつつ角度を付けて見やる。
見慣れたスーツだ、間違えるわけがない。じわじわと嫌な予感が這い上がる。
男は楽しそうに、大林が全体を確認し顔色を変えたのを見やると、おもむろにスーツのジャケットの内側、胸ポケットのあたりを見せつけるようにして広げた。
R.Sakakibara
銀糸で見事な筆記体で刺繍されたネームは、大林が先週対応した客の名前であった。
「ひっ………………!」
「ぶ、あはははは!!!」
あまりの衝撃に、一気に体温が下に向かって落ちていく。下手なホラー映画よりも怖い。おばけ的な意味ではなく、社会的な意味でだ。
口を覆い、上擦った声をあげ膝をつく大林の様子がよっぽど面白かったのであろう、先程の食えない笑みよりよっぽど親しみやすい快活な笑い声を上げた男、もとい榊原は、もうこれ以上は笑えないといった様子で目端に滲んだ涙を拭った。
「さ、さかさ、さかきっ…さかきばらさま…」
「うんうん、びっくりしたね?大丈夫だよ会社には言わないから。」
んふふ、とまだ余韻で笑っている榊原をまじまじと見やる。会社には言わないから、は信用していいのだろうか?後から脅されたりしないだろうか?
大林は自分の身の振り方を考える余裕はまだないが、何よりも榊原に言いたいことがあった。
「ぜ!全然ちがう!!こないだのもっさいにいちゃんじゃないじゃないですか!!」
「ああ、まあ休日は仕方ないな。もっさくてごめんね?」
「アッイヤゼンゼン…」
あ、やべしくった。と思っても口から出た発言は戻る訳は無い。ただ、思わず出るくらいにギャップが酷かったのだ。
まるで近所のコンビニへ行くような毛玉だらけのスウェットにぼさぼさの髪。前髪で隠れて目元までは見れなかったが、寝起きで鷲掴みましたと言わんばかりにつけていた大きなフレームの古びた眼鏡は油で虹色に輝いていた。
おまけに無精ひげはまばらに生え、洗練された紳士服売り場では異質な雰囲気すら出ていた。
周りが不審者ではないかと様子見をしていた為、なんとなく申し訳なく感じて、せっかく来てくれたからと大林が接客をかって出たのだ。
まぁ、ぼそぼそと話す声は小さく聞き取るのに苦労した。何よりも焦ったのは、突然メモを渡され、そこに書かれている寸法と近いスーツを試着もせずに買うと言われたときだった。
あそこまで冷や汗を書いたことはない。裾上げもこの寸法でと言われた為、股上の深さも試着で確かめずにそのまま修理をして、いざ短かったから返品します。なんて言われた日にはスーツ一着分が無駄になるのだ。
どきどきしながら裾上げをし、お渡しの際も再修理は無料で承れるので、仕上がりを試し履きしませんか?とお伺いを立ててみたものの、謎の男は一言、
「うん。」とだけ言って、購入したスーツ片手に帰っていった。
楽して高額なスーツが売れたので、周りの先輩からはラッキーパンチだったなと言われてイラッとしたが、その謎の男の雑な買い物のおかげで一週間はヒヤヒヤした。閑散期で暇だったこともあるが個人売も厳しく、返品が発生したらどうしよう。とずっと胃を痛めていたのである。
店内滞在時間も短く15分程度だったのと、何よりもあのインパクトだ。忘れるわけもない。
あの大林の胃をストレスで虐めていた張本人がまさかメタモルフォーゼをして目の前にいるとは。
本当に、世の中何が起こるかわからない。こんなサプライズは辞めていただきたいが。
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