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第25話
榊原が長期出張から帰ってくる日で、大林の決意を差し出すと決めた今日。
旭とバレンタインチョコレートを作ったあの日、勇気を出してマンションの近くまで行ったのだが、榊原が帰ってくるのが明後日だということを失念していたため、結局家の冷蔵庫にしまったままにしていた。
酒が入ってはいるが、日持ちしても3~4日目安だろう。今日渡さなければ、自分で食べるしかない。
作り直すことも考えたが、そうすると自分に甘えて渡せなくなる気がしたのでやめた。
せっかく旭が勇気をくれたのだ、駄目だろうがなんだろうが、やらないよりやるほうがいい。
榊原が帰ってくるのは19時頃らしく、家につくのは恐らく21時をすぎるかもしれない。
久しぶりにきたSNSには、帰宅の時間と共に話したいことがある。とだけ端的に来ていた。
自身も普段から使い慣れている句点で締めた言葉がこんなにも怖く感じるなんて、と自分の女々しさに少しだけ笑った。
外は寒気が空気を支配しており、ただでさえ緊張で冷えた体には辛い寒さだ。
悴んだ手には小ぶりな紙袋を握りしめ、ポケットにはもらった合鍵を入れた。
もし、断られたらそのまま合鍵だけ返すことに決めていた。最初はポストに入れて逃げるつもりだったが、大林も大人だ。きちんと逃げずに気持ちを伝えることにした。
そしてなによりも、会いたかった。
2週間程前は、気不味すぎてわざとすれ違うようにしていた。あんな事があったのに、平気を粧って顔を合わせる勇気がなかった。
そんなことをしているうちに仕事で榊原が不在の日が続き、自分がいけないとわかっていながらも気持ちの落としどころが見つからず、ただ忘れたくて他人の温もりを求めた。
「振り返ってみると、クソビッチだな俺。」
ジャリジャリと音を立てながらコンクリートの坂を上がる。通いなれた道だ、この坂を上がった先にある。
大林は変わりたかった。榊原に対して抱いているこの恋心とは裏腹に、体は綺麗なものじゃない。
だからせめて売りはやめようと、この2日で専用スマホも解約したし、最後に寝たあの暴力男にもきちんと別れを告げてきた。
もう会わないことと、売りをやめること。
体の相性がいいと一方的に押し付けるような相手だったが、依存されていたらしく最後までごねられた。
結果かなりの痛手だったが、その男から受け取っていた金を纏めて返して手切れ金にした。
几帳面にも手帳に金額を書き留めておいたので、文字通り耳揃えきっちりと10万円。
正直一発殴られたし、馬鹿にするなとキレられたのだ。
おかげさまで頬に湿布を貼る羽目になるとは販売員として失格だ。連休最終日の明後日には腫れは引いてると信じたい。
自分の体で稼いだ金は、売りを始めた日から計算すると50万にも満たない。一回2万だ。1年間で稼いだ額は、月換算するとバイト代より遥かに少ない。
奨学金を払うため、という理由付をした承認欲求を満たす行為。
そんな浅ましい理由で体を汚した自分が、きれいな榊原に触れたいと思う。
「ついた、」
時刻は20時を少し過ぎた位である。エントランスに入り、セキュリティ認証を住ませれば向かうは16階だ。
エレベーターの狭い箱の中、静かに回数だけが重なっていく電子版を無言で見つめて平静を保つ。
やがてポーンと軽い音を立ててフロアに到着すると、深呼吸をひとつ。
久しぶりの見慣れた扉を開ける。かちりと当たり前のように嵌った鍵にひどく安心して、少しだけ泣きそうになった。
「まだ、だよな。」
遅くなると言っていたが、どれくらいなのだろう。
持ってきたチョコレートをひとまず冷蔵庫にしまうと、少し埃っぽくなっていた室内をざっと掃除する。
晩ごはんは遅いから食べてくるのだろうか、食材は当たり前のように無い為、出せてもおにぎりとお味噌汁くらいなのだが。
棚を開けると、大林が買ったタッパーが丁寧に仕舞われている。
ハンガーに吊るされたままのエプロンも、購入した調理器具や鍋つかみ、調味料等、家庭にある当たり前のものが無かった榊原のキッチンに大林が残したもの。
それらの存在が大林を当たり前のように迎えてくれたことが嬉しかった。
こんなのずるい。捨ててくれたほうが、よっぽど優しいのに…期待させるように、こんな。
相反する感情は処理しきれないまま、大林の目から溢れる。
「っ、ふ…」
ぼたぼたと大粒のなみだが床に軽い音を立てて落ちる。
せっかく掃除したのに、これじゃあ行けないと床に落ちた雫を拭う。
何回も拭くのに、それをからかうかのようにぼたぼたと落ちるの繰り返しで、やっと自分が泣いていることを自覚した。
「は、…うぅ、っ…」
ぐじゅぐじゅと涙と鼻水で顔を汚す。水気を含み、頬にはられた湿布のメンソールがさらに目を刺激するという悪循環。大林は子供の様に肩を震わせながら、何度も袖で目を拭う。胸が熱い、苦しい、波のような感情が襲ってきて制御ができなかった。
ただ床に丸まり、小さく震えながら泣く姿は、いつもの余裕のある姿ではない。
榊原さんが帰ってくるまでに、泣き止まなくてはいけないのに…頭でわかっていると余計に駄目だ。
「っん、んぐ…っう、ぅ…」
カタン、と立てかけていたワイパーが床に倒れた音がした。
それと同時に、ばたばたと忙しない音がした事にピクリと体を震わせた瞬間。
心の準備が出来ないままの大林の背中を、大きくて温かいものが包みこんだ。
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