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第26話

「おい、なんで泣いてる…」 「ひ、っ」 普段のおおらかな様子はなりを潜め、少し慌てた様な乱暴な口調。 夜の空気を纏った榊原は寒さで冷えたコートすら脱ぎもせず、鞄すらも投げ出して蹲る大林のもとへ駆けつけたのだ。 「な、なん…えぅ、っ」 「だから!なんで泣いてるんだと聞いている!」 眉間にしわを寄せ、驚きと動揺に更に涙を零す大林に対して焦りのあまり思わず声を荒げた。 榊原は、山ほどあった言いたいことを整理する暇もなく帰宅した瞬間に蹲る姿を見たのだ。 てっきり倒れているのかとも思ったし、抱きしめれば大泣きしているし、大人の余裕を装う暇もないままパニックになった。 「さ、さかき…っ」 「俺をみろ、って何だ、どうしたその顔は!一体誰にやられた!?」 「っぅ、うぅ…も…ひ、ぅう…っ」 「わ、悪い、泣くな…大きな声出してすまなかった、お、おいっ」 埒が明かないとばかりに無理やり大林を振り向かせるが、今度は頬にはられた湿布の存在に動揺した。 榊原も到底不器用な男なので、自分の理解の範疇を超えてしまうと途端にこうなる。 大林は大林で、涙を見られた恥ずかしさと会えた嬉しさ、そして何でこんなに自分が怒られているのかわからないという情報量の多さにキャパオーバーしてしまい、余計に泣くというカオスである。 ようするに、この場にいる大人は二人して感情制限ができていないのだ。ここに旭や柴崎がいれば適当にとりなして場を収めるのだが、そんな訳もあるはずない。 ただ、このとき榊原は長期出張の疲れと、大林とのあの日についての事を延々と考えていた為の睡眠不足と過度のストレス、そして極めつけが帰宅後のこの状況であった。 その為頭が回らなかったし、泣く相手の涙の止め方だって知らない。 なので煮詰まった頭の中で榊原が必死こいて出した結論が、ひゃっくりと同じ方法であった。 「あぁ、もう!」 「ふ…!んン…っ!」 大林は大きな手で包まれるようにして顔を挙げさせられた。見開かれた大きな目には涙はまだ残るものの、至近距離に榊原の整った顔が近づいたかと思った時には唇を覆う様に柔らかいそれが重なったのだ。 頬を包み込む榊原の手の熱源が、じわじわと大林の顔に移る。 一体自分の身に何が起きているのかがわからなかった。 「…落ち着いたか?」 「う…?」 ちゅ、と濡れた音を立てて唇が離れる。舌を絡めるような深いキスではないが、数秒間の粘膜の接触。 大林にとってはなんてことない口づけの一つの筈なのに、心臓が煩いくらいに存在を主張する。 榊原との、初めてのキスだからだろうか。 「…大林、くん。」 「は、い」 キッチンの床で、いい大人が二人して情けなくへたりこむ様子はシュールだが、いかんせん二人は真剣だった。 榊原自身も徐々に冷静さを取り戻し、今更すぎるがいつも通りを必死で取り繕うとしていた。 「ふ、はは…」 「ん、くくっ…く…」 先程散々乱暴な口調だったというのに、我に返った途端に誤魔化そうとする様子がおかしく、そして榊原自身も今更だと思ったのかお互い様が功を奏したのか、気がつけば大林の涙もとまっていた。 二人は自然に額を重ねると、まるで思春期の学生のようにおずおずと二回目の、拙い口付けを交わした。 「ん、…あの…」 「ただいま。」 「…おかえんなさい…」 「うん、」 顔の火照りを隠すように、榊原の首に腕を回して抱きつく。それを嬉しそうにして抱きかかえて立ち上がると、そのままリビングのソファへ向かった。 「わ、っと…歩ける!」 「頼むから、こうさせて。」 柔らかさが戻った口調でお願いされてしまえば否やとは言えない。 大林は榊原のお願いには弱いのだ、恋とはやっかいなものである。 胸の奥を甘く締め付けるような感覚は未だ慣れず、心臓の音だって落ち着いてきたがまだドキドキする。 平均より下とはいえ、成人男性を軽々持ち上げる榊原の腕力はどうなってるのやら、と思考をとばして照れを隠した。 「もいっこ、お願い。」 「はい、」 ソファに座り、大林を横抱きに抱えるようにして膝に載せたまま榊原は続けた。 「理由をきかせて」 「あ…、」 すり、と湿布の貼られた頬を撫でる。指先のカサついた無骨な手が労るように優しく。 大林は、きゅ、と唇を結んで意を消すと、自分の気持から話すことに決めた。 「好き、です。」 初めての告白。この4文字に、今までのすべてが詰まっていた。 絞り出すように、顔を真っ赤にして、そしてまた泣くのではと思うくらいに目を潤ませながら。 「榊原さんのことが、すきだから…っ」 「っ、うん。」 榊原は、叫び出したいくらいの感情をなんとか押し込めて、続きを待った。 一言一句聞き逃すまいと、しっかりと気持ちを告げる大林をまっすぐに見つめて。 「奥さんが、いるのはしってます」 「ちょっとまて。」 聞き捨てならないワードがでたタイミングでストップをかける。 大林はキョトンとしたまま、やがてなにを勘違いしたのかじわじわとまた目を潤ませる様子に、榊原は慌てて弁解した。 「ちが、結婚してないし、彼女もいない。」 「だ、って…」 それ…と左手の指輪を見やる様子に、やはり先に言うべきだったかと苦笑いをこぼす。 ただ、勘違いさせてしまったのはこちらの落ち度だが、それで思い悩む程好きになってくれたのは純粋に嬉しかった。 「これね、魔除け。あとは信頼を得る為のツールかな?」 「魔除け?」 「そ、相手がいるって思ってもらった方が、相手も信頼してくれるんだよ。営業職だとわりと居るよ?未婚なのに指輪してるやつ。」 魔除けの意味としては同じマンションにすむ未亡人避けや、社内恋愛の牽制的な意味もあるのだが。 「独身だと仕事終わりに飲み会とか誘われるだろ?既婚とか彼女もちに見られてたほうがそういうの出なくていいしね。」 意外とずるいだろ、と安心させるように笑う。 大林は呆気にとられたまま、自分の勘違いで暴走したことに羞恥心で頭が真っ白になってしまった。

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