209 / 218
ミスターバイオレンスの遺言【後編】4
「………あの、」
「なぁに?」
「母からのお金の要求の件で呼び出したわけじゃないんですか…?」
「え?」
「俺を呼び出したのは…それを理由にかなと別れさせたいから…なんですよね?」
「……別れる気あるの?あの子と」
「ありません」
おふくろへの遠慮からか終始緊張気味だった恭介の声色が、この一瞬だけとても明瞭になった。明るさと優しさで縁取られたいつもの恭介の声だ。クリアなのにどこか情熱を感じる、気持ちいいほどの即答に思わずドッと心臓が跳ねた。
…言ってくれるじゃねーか。惚れ直すだろ、バカ。なんて、本人にはとても言えないけれど。
おふくろの返答次第では中に入らなければ…そう思ってドアノブを握る手にも力が入る。じんわりと背中にも汗が伝って、嫌な緊張感が全身を支配した。
「随分いいお返事……そうね…結論から言うとあなたのお母様の件はただの報告で本題は別よ」
「……え?」
「和倉くんは……要の過去をどのくらい知っているの?」
「……あ………、その、例の事件のことでしたらかなから全部聞いています」
「そう…やっぱり聞いていたのね……じゃああの子との関係には大きな障害が伴うことも理解しているのよね?」
「はい」
「……キスもできないのよ?ちゃんとわかってるの?」
「わかってます」
「それでも、要がいいっていうの?」
「はい」
「…いくら要より年上だとしても…和倉くんあなたはまだ若いわ…今は良くてもきっとこの先耐えられなくなる時が…」
「大丈夫です」
「でも…」
「俺は息子さん以外愛せませんから」
恭介の言葉に、じわっと視界がぼやける。大袈裟じゃなく、胸がキュッと押し潰されるように苦しくなるのを感じた。いつもは本当にアホだし、忠犬みたいに俺の言いなりのくせに…なんで肝心な時はこんなスマートになるんだよ。かっこよすぎだろ和倉恭介。なんかもう逆にムカつくわ。
なんだか…盛大に笑い声を上げながら、もう少し素直に褒められないの?っていう恭介の優しいツッコミが聞こえてきそうだ。だって仕方ない。それがお前の愛した捻くれ者の俺なんだから。
「……そう……それなりに、覚悟しているつもりではあるのね」
「もちろんです」
「……本当に?」
「はい」
「わかったわ……じゃあ質問を変えるわね…あなたは…性被害を受けた人間の苦しみをどのくらい理解しているの?」
この瞬間、母の声はグッと険しくなった。驚きで思わず声が漏れそうになり、慌てて口を塞ぐ。なぜなら俺は…おふくろはあの事件のことなどきっともう気にも留めていないと思っていたから。もう何年もあの日の話なんてしていなかったし、おふくろも気にしている素振りなど一切なかった。なのにまさか…わざわざ恭介を呼びつけてこんな話をするなんて。
「和倉くん…要はね、あの日一度死んだのよ」
「……」
「あの子にとってあの出来事はぜんぜん過去じゃないの……それは私にとってもね」
「……はい」
「あなたは……まだ13歳の子供が大人に無理矢理拘束されて、服を脱がされて、犯されて好きなように弄ばれることがどんなに残酷なことか本当に理解できているの?貞操を奪われて、心を壊されて、事件の直後はあの子がふとした瞬間に命を絶つんじゃないかと毎日怖かった……そういう時間を私たち親子は過ごしてきたのよ」
唇が熱を失うのを感じる。母の言っていることは何ひとつ間違っていない。本当のことだ。
今思い出しても事件の直後の俺は精神崩壊なんて生易しいもんじゃなかった。目に映る全てのものをグチャグチャに壊してやりたかった。記憶が消えて欲しいと願いながら何度も何度も自分の頭を叩き、あの女に撫でられた髪が気持ち悪くてその日のうちにハサミで思うままに切り刻んだ。自分の顔も、身体も、性器も、何もかもに吐き気がして、この世で一番汚いもののように感じた。俺を弄んだあの女を地獄に落としてやりたいと心の底から呪いながら…ドロドロの液体の中でもがきながら死なない程度に小さく息をするような…そんな日々だったんだ。
それでも俺は、恭介に出会ってやっとこの世界で生きて行きたいんだって思えたから。だから、もう過去の自分もちゃんと抱き締められる。大丈夫。大丈夫なんだよ…おふくろ。
「あの子の傷は時間で癒せるものじゃない……あなたから受ける愛でもきっと全ては癒せない」
「……はい、わかってます…実際俺たちは…ちゃんとした形では身体の関係を持てませんでした」
「そうでしょう…?」
「それでもいいんです」
恭介の優しい声に聞き入る。ドアに頭を押し当てて、そっと目を閉じるとゆっくり涙が溢れていくのを感じた。鼻の奥のツンとした痛みと共に頬が涙でじっとりと濡れていく。なんだよ俺、また泣いてんのかよ。
「俺は息子さんを愛しています」
「……」
「初めて目があった瞬間からもうこんなにも心惹かれる相手には出会わないと確信してました…例えかなとキスすら出来なくてもそんなのは俺たちが一緒にいない理由にはなりません」
恭介の気持ちなんてもう十分過ぎるほど本人から聞いていたはずなのに、改めて言葉にされると…なんだかまたグッときてしまった。まだまだやりたい盛りのアラサー男にこんな重い罰を与える俺って……本当に残酷だ。
「それに、かなはもう前を向いて歩いていますよ…だから俺はあなたにも前を向いて欲しいと思ってます」
「……え?」
「ご自分のこと、責めてきたんでしょう?」
「……なんで、」
「俺は結城 要を心から愛してるのでわかります…あなたも俺と同じくらいかなを愛してるって」
恭介の言葉を聞いて、おふくろが啜り泣く音が静かに響いた。DV被害に遭っていたときだって決して俺の前では泣かなかった母の涙に衝撃が走る。嘘みたいだ。おふくろが…俺のために泣くなんて……
なんだ……俺、ずっと勘違いしてたんだなおふくろのこと。こんなに俺のことを想ってくれていたなんて想像もしてなかった。俺はずっと…俺という存在がおふくろの人生の枷だと思ってた。自分を殴る最低な男との間に出来たかわいくない子。再婚して、幸せな家庭と新しい夫と子供を手に入れた母には俺は汚点だと…そう思っていたのに。
こんなに愛していてくれていたなんて…なんで気が付かなかったんだろう。
ともだちにシェアしよう!

