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ミスターバイオレンスの遺言【後編】7
「……要、あなたを襲った女のことなんだけどね…」
「え…?」
「あの事件の犯人の女よ…ママはね事件以降ずっと犯人の行方を探させていたの」
母の口から出た言葉になんだか視界がグラグラと歪むような感覚を覚えた。事件の日から今までそんな素振り一切なかったのにまさかそこまでしてくれていたなんて。
一体おふくろはこの後なんて言うんだろうか。いや、そんなこと考えなくてもわかる。わざわざ今ここでそれを口にしたと言うことは…十中八九犯人を探し出したということなんだろう。
一瞬にして硬直する俺の手に恭介が自分の手を重ねる。半分泣きそうな顔でチラッと恭介を見ると、恐ろしく冷静でそれでいて静かな怒りを秘めた瞳で見つめ返された。目を合わせたままキュッと唇を噛むとそのまま手を握られて少しだけ心拍が落ち着いた。すげーなこの安定剤っぷり。さすがは俺の男。
「結論から言うと、見つけたわ犯人」
「……」
「これは調べた過程で掴んだ全ての情報が書かれたファイルよ」
母は部屋の隅に置かれたアンティークのチェストから分厚いファイルを取り出した。いまだ頭が追いつかず、俺は虚な目でチェストを見る。俺がまだ小さい頃からおふくろが愛用している英国アンティークの猫足チェスト。我が家の優秀な使用人たちによっていつでもピカピカなそれは"古い"などという言葉とは無縁で歴史を完全に自分のものにしている。
恋人が完全に現実逃避していることに気がついた恭介はパッと俺の目の前で手を振り、現世に引き戻した。
「かな…?大丈夫?」
「……ごめん、ぼんやりしてた」
「大丈夫だよ俺がいるからね」
「……うん」
恭介は俺の手をさらにギュッと握る。きっとわかっているんだ。少しでも気を緩めれば俺が過呼吸を起こしかねないことを。
母はそんな俺たちの様子をじっと眺めた後、手にしていたファイルを俺ではなく恭介の前に置いた。
「これは和倉くんに渡しておくわね」
「え?俺ですか?」
「そうよ……中を見てもいいし、見なくてもいい…あなたから要に見せてもいいし、見せなくてもいい…自由にして」
「えっと……なぜ俺に…?」
「そうね…信頼に足る男だと確信したからよ」
「……」
「あなたは私よりずっと今の要のことをわかっていると感じたから……だから、託すわ」
そう言ったおふくろは今まで見たどんな瞬間より、母親の顔をしていた。
「だけど、一言だけ伝えておくわね」
「……?」
「要……よく聞いて」
「……え、なに…?」
「死んだのよ」
「……は?なにが?」
「あの女は……死んだの」
「………………え?」
「長年居場所がわからなかったけど…わかった時にはすでに亡くなっていたの」
母の言葉を理解した瞬間、まるで頭に雷が直撃したかの様だった。電流が頭のてっぺんから足の先に抜ける様な感覚が走って、チリチリの耳の奥が痛む。舌先が震えて言葉が出ない。無言の俺を置き去りに、おふくろと恭介がなにやら話しているのが遠くの方で聞こえた気がした。…そう、気がしただけ。俺にはすぐ隣で交わされているはずの会話が聞こえなかったんだ。
自分という人間が一体どんなことを考えて生きてきたのか。どんなことに心奪われてどんなことに気持ちを傾けてきた…?この約10年、俺は一体何者だった…?そんな考えが脳内を支配した。長い思考の末、俺はやっと理解する。忘れ去りたい苦しいだけの記憶だったはずなのに、いつの間にか俺の一部になってたんだと。人格というものはいい記憶だけで出来てるわけじゃないんだなと思い知る。
俺はあの出来事があったから今の俺なんだ。
そして今、その呪いから解き放たれた。
心に残ったのは安堵と、焦燥。不思議だ。正反対の矛盾した感情なのに、確かに俺の中に残った。
その後俺は、一体どんな顔をしていておふくろとどんな言葉を交わしたのか……なにも覚えていなかった。
「かな、これワインセラーに入れちゃうけどいい?」
次に俺の意識が完全に覚醒したのは自分のマンションに帰ってきてからだった。足元を見ると俺の部屋の玄関で、隣には恭介が紙袋を持って立っている。お互いまだ靴は履いたままだ。そのまま顔を上げると恭介とバチっと目が合った。
「お、やっとこっち見た…大丈夫?」
「………恭介……俺……寝てたのか?」
「え?ううん…でもなんかずっとぼんやりしてたから俺が運転して帰ってきたけど…かなはちゃんと目開けてたよ?もしかして覚えてないの?」
「……うん」
「マジか…」
デジャヴ。そうだ…前にも同じようなことがあったっけ。あれは恭介と離れようと決意して、知らない女に絡まれた日だ。あの時の方がまだ記憶があったかもしれない。今回は本当にゼロだ。
恭介は少し困った顔をした後、すぐにいつもの笑顔を俺に向けた。たったそれだけ。それだけで何故かキュンと胸が鳴った。いつもならあり得ない状況に俺はわかりやすく焦る。それをジッと見ていた恭介も同じく焦る。
「え?え?なに…かなどうしたの…?体調悪い?」
「あ、……いや、なんでも…」
「…?じゃあとりあえずこれワインセラー入れてくるね」
「ワイン…?お前が買ったのか?」
「えっ?あ…そっか覚えてないのか……かなの実家から出る時にかなのお母さんから貰ったんだよ」
「………そうなんだ」
「うん、かなの好きなワインだから持って帰ってって言ってたよ~」
ご機嫌で靴を脱ごうとする恭介の肩を掴む。止められるとは思っていなかったのか、恭介はびっくりした顔で俺を見た。
「ん?どしたの…?」
「ちょっと……待て」
「へ?いや…でもワイン……」
「それは…後でいいから」
「ええっ!?でもかな…ワインの温度管理すごい気をつけてるじゃん…!だから早く帰ってきたのに」
「……今、それどころじゃねーんだよ」
「……?え?ごめん、話が見え…」
グッと片手で恭介の肩を押し、壁に押し付ける。呆気に取られる恭介はワインを割らない様にゆっくりと紙袋を下に置き再び俺を見た。この状況でまだワインのことを気にしているのかとイラッとして、恭介の両足の間に右足を突っ込み同時に絶対に逃さない様に顎を掴む。不本意ながら革のショートブーツで壁を蹴り上げる形になってしまい、ああこれはあとでしっかりめに拭かなきゃな…とどうでもいいことが頭をよぎった。まぁ、穴が空かなかっただけマシだよな。
さてどんな顔をしているのかと恋人を下から見上げると、盛大に動揺し口をパクパクさせた男が1人。
おいなんだその顔は。そんな顔されたら俺がいじめてるみたいじゃねーか。……え?これ客観的に見たらいじめてる?
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