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第8話
「どこ行くの?」
羽織っていただけのシャツのボタンを慌てて直し、事務所の片隅に置いてあった自分の荷物を持って、眼鏡をかけた景親は桃司に腕を引かれながら早朝の繁華街を歩いていた。
土曜の早朝の通りは、地面に転がる酔っぱらいがちらほらいるだけで静まり返っている。
桃司の行き先はもう決まっているらしく、真っ直ぐに目的地に向かって歩いているようだった。その背中に行き先を訪ねると、視線だけでこちらを見上げた桃司が答える。
「僕仕事終わりでお腹空いてるの。面倒見てあげたんだからご飯くらい奢れよ。ちーちゃん。」
可愛らしい歯を見せてそう言った想い人の笑顔に、景親は心の奥がきゅんきゅん鳴った音を確かに聞いた。
「是非!奢らせて!」
昨日死ぬ気で仕事を片付けて休日出勤を回避した自分を褒め称えたい!
桃司に引かれていない方の腕を元気よく掲げて力強く頷き、歩くスピードを上げた。
桃司が入った店は、全国各地に展開されている24時間営業のファミレス。
テーブル席に向かい合って座り、メニューに視線を落とす桃司を景親は記憶に焼き付けるように真剣に観察していた。
毛先だけ薄桃色に染められた髪も、伏せられた長い睫毛も文字を追いかける潤んだ瞳も、ぶつぶつとなにか呟くぷくりと膨らんだ唇も、何もかもが愛おしい。
眼鏡のレンズにこの姿をプリントできればいいのに。
脳内でそんなことを考えて流石にじろじろと見つめすぎたのか、桃司がじとりと視線を上げる。
「なに。あんまり見ないで。」
「え、あっ、ごめん!」
「そんなに好き?僕の顔。」
「へ…?いや、えへへ、うん。」
不機嫌そうな顔も可愛いなあとへらへらしながら頷いた。
そんな景親に、桃司は更に胡乱な目を向ける。
「…僕がこんな仕事しててこんな性格でも?」
「こんなって?」
「喜んで汚いおじさんのちんぽだってしゃぶるし、本番だってする。それに仕事中と違うでしょ、今の僕のキャラ。口悪いことだって平気で言うし。素で喋るとがっかりされるんだよね。」
桃司の言葉をゆっくりと咀嚼して、景親は首を横に振った。
「そんなの、何も気にならない。」
それは紛れもない本心だった。
不思議なほどに、景親は桃司に惹かれている。そこに理屈なんてものは存在しない。ただ、自分はこの人に出会うために生きてきたのだとそう感じるのだ。
だけどそんなことが桃司に伝わるはずもない。
ふん、と鼻で笑った桃司が再びメニューを見つめて呼び鈴へと手を伸ばす。
「まあ、みんなそう言うよ。内心でどう思ってるかなんて、分からない。」
考えるよりも先に体が動いていた。
つかんだ手首は、想像しているよりも何倍もほそくて折れてしまいそう。
もしかして、彼はたくさん悲しい思いをしてきたんだろうか。無駄に頑丈な僕とは違って、こんなに華奢な体で。
「モモくんの仕事は差別されるような仕事じゃない。僕は勇気を出して店に行ってモモくんに会えて、何て言うか、その、すごく生きる糧をもらえたし、そういう人って他にもいると思う。それって、毎日毎日上司に怒られてる僕なんかよりきっとずっと誰かを救ってる。」
自分でも意外なほどに、するすると言葉が出てきた。
「それに僕は、店でのモモくんも、飾らないモモくんのことだってもっともっと知りたいよ。」
文法も何もあったもんじゃないが、そんなのは気にならない。ただ、貴方は素敵な人だと伝えたかった。
「…童貞のくせに。」
プイ、とそっぽを向いてそれだけ言った桃司の耳は少し赤く染まっているように見えた。
それから唐揚げ定食のご飯大盛りをペロリと平らげた桃司は、店を出てすぐにあっさりと「じゃあね。」と別れを告げる。それを見てもうおしまいかと泣きそうになっていると、小さな手のひらが差し出された。
「スマホ。出して。もう店来ないでよ。」
かくして草臥れた童貞眼鏡サラリーマンと可憐な美少年は日々連絡を取り合い、時に待ち合わせをする仲になったのだ。
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