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進路
せっかく来たのだから、と司を引き留めた担任の教師はまだ若い。教員になって数年で司のような生徒がクラスにいることはさぞかし手を焼いただろうと他人事のように思ったが、若さ故なのか性分なのか、闊達な担任はいつも気の良い友人のような立ち位置で司に話しかけて来る。
それでも放課後の教室で、対面で向き合うとやはり一抹の緊張感はある。日頃は明るい担任がいかにも真面目で真剣そうな話し合いをしようという空気を漂わせている様に、どれだけ反抗的なポーズをしたところで自分は未成年の少年で、担任は一人の大人なのだと思った。
「まあまだ進路がどうのとかじゃないんだけどさ。なんか無いのか。やりたい事とか」
「…別に、」
制服のポケットに両手を突っ込み、尻は半分だけ椅子に乗せた、今にもずり落ちてしまいそうな体勢の司は担任と目を合わせない。担任が手にした銀色のボールペンが指の中でくるりと一回転する。手元に広げたノートは白いままで何も書かれていなかった。
「進路がどうのとかじゃないんだけど、文系か理系かは決めなきゃならん。国語と数学、どっちが好きだ?社会と理科でもいいけど」
担任は、他の大人たちのように懐柔するような猫なで声でもなく、圧をかけるでもない世間話のような声で重大な問いを寄越す。米とパンどちらが好きかと問うような声音に司は思わず目を瞬かせた後に軽く眉間に皺を寄せた。軽い問い掛けは良い意味で真剣さを削ぐ。ぐるりと思考を1周させ、拾い上げたそれを口にした。
「……社会」
「お。それじゃあ第1候補に文系って書いておくからな。気が変わったら教えてくれよ」
担任がようやく嬉しそうに笑う。年内中に教えてくれると嬉しいな。目元を緩ませながら白紙にボールペンを走らせた。右端に「文」と記した一文字を走り書きの丸で囲む。残りのスペースには何が書かれるのだろうとぼんやり思う司の前で担任が立ち上がる。ガタガタと椅子が鳴った。
「また明日も来いよ。地理も歴史もあるからさ」
掲示板に貼られた時間割を眺め、担任はもう一度司の目を見る。すぐに逸らされる生徒の目線に、若い担任は眉を垂れて笑いながら教室を出ていった。
「──あれ?」
担任と肩を並べるつもりも、担任の後ろを歩くつもりもない司は5分程時間を置いてから教室を出ることにした。ガラガラと引き戸を開け、廊下に踏み出した司に耳馴染んだ声が向けられた。振り返ると、同じように別の教室から出てきた琉太がどこか安堵したような笑みを覗かせながら早足で司へと距離を詰めてきた。琉太、と返しつつ顔を上げる。琉太の背後には、琉太の担任の教師なのか年配の男がどこか憮然とした表情で立っていた。
「司くんもまだ残ってたんだ。一緒に帰ろうよ」
せっかくだし、と肩を並べる琉太を見遣り、少しだけ振り返る。琉太の担任は自分達とは逆の方向に向かって歩いていく。背の高い、筋肉質な体の男だと思った。
司に追いついてもなお少し早い歩調のままの琉太に目を戻す。背中がどことなく強ばっているような気がして、内心で首を傾けた。
「司くんも同じ?進路の話?」
「進路、っていうか」
肩で大きく息を吐き出してから振り返った琉太はもう普段と変わらない表情をしていた。昼に返したマフラーを巻いた首の上、よく知った眼差しが司を見つめている。先程担任にした素振りと同じように軽く目を逸らした。
「文系か理系か決めろって」
「あ。俺も同じ。ね。どっちにしたの?」
──小学生の頃、学校で配られた日本地図を飽きもせずに眺めていた。
司は知っている、家族旅行で訪れたことのある地名を懸命に探してはそこでの思い出話を琉太に聞かせた。それは決して得意げに語られるものではなく、自分の住む世界の狭さを知っては目を丸くし、司の話にただ無邪気に感心したり喜んだりする琉太の姿をいつまでも見ていたかったからに他ならない。
想いは遠い昔から生まれていた。
先程教室の椅子で思い出したことはそんな些細な事だ。だがその些細なことを選び、口にする時には司の脳裏にいつも琉太が居た気がした。
「…文系、」
「あ。ほんと?じゃあ俺も文系にしよ、」
訂正しなきゃ、と呟く琉太に司の瞳が小さく開く。自分の言葉にあっさりと進路の変更を決める幼なじみを慌てて見やるも、琉太は平然とした顔をしていた。
「…おい。そんな簡単に決めて良いのかよ」
「良いよ。どっちでも良いと思ってたし」
涼しげな顔をして答える琉太に司の方が居心地が悪そうに眉を寄せた。何か重大なことに関わってしまったような責任感のようなものが胸に漂い始める。もっとちゃんと決めろよ、と思うものの、己の事を振り返ってしまうと一層それを口にする術は見付からずに黙って廊下を歩き続ける。
「…それにさ、」
「それに?」
足は玄関に向かう階段に差し掛かっている。足を降ろそうとする琉太の上履きが一瞬止まった。先に1段降りた司が琉太を見上げる。よく──良く、知り過ぎた琉太の瞳に、ほんの一瞬だけ陰りが射す様を──見た気がした。
「……司くんと同じクラスになれればそれで良いよ」
「……なんだよ。それ、」
伏せた目を上げ、琉太が笑う。ぱ、と音がしそうな表情の変化をつぶさに目にした司の胸が鳴る。こんな風に、琉太の言葉1つに、表情の変化1つに自分が揺り動かされていることなど琉太は知らないのだろう。
知られては、いけないのだ。
「帰ろう。…司くん、明日も学校来なよ」
先程担任とかけられた言葉と似たような言葉を口にされる。言葉は同じであっても、琉太が口にするそれはまるで形や色が違っている。
中身のないカバンを手にしたままポケットに手を突っ込む。胸中を悟られまいと足元を見る振りをして顔を背けた。
「…わかんね、」
玄関の扉が開いているのか、階段を降りるごとに空気の温度が下がっていく。また雪降ってきたかな。再び肩を並べて呑気な声で呟く琉太の横顔を盗み見ては、ポケットの中の指を握り締めた。
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