5 / 17

地図

琉太と会った放課後は何故か繁華街に向かう気になれなかった。 街中の雑然とした、猥雑や喧騒の中に足を踏み入れて、仲間とも言えない仲間とだらだらと時間を潰すことよりもすぐに自分の部屋に入り、1人きりになりたかった。 琉太と交わした言葉の一つ一つと、琉太が自分に向けた表情一つ一つを掌の中で暖めるようにして携え、琉太と別れた後に真っ直ぐに家に帰り、部屋で一人そっと取り出しては眺めるようなことをもうずっと繰り返している。 自宅には誰もいなかった。 日中家にいるはずの母親は今日も何処かに出掛けているのだろう。父親の仕事上の付き合いだとか、母親個人の友人であるとか、母親の姿は交友関係を保つことに腐心しているように司の目には写っている。 それは、いわゆる「悪い仲間」とつるむ自分との相似形だ。 母親は夜には帰って来ているだろうが久しく顔を合わせていない気がする。両親とは、ずっとすれ違う日々を続けているが何か小言や説教のようなものを言われたことは無い。 暖房は稼働してはいるが何処か寒々としたリビングを素通りして自室へと帰る。手にした軽い鞄を放り出し、子供部屋として与えられるにはやや広い部屋を見渡した。窓を開けられない季節はどうしても煙草の臭いが籠る。自ら眉を顰めつつ、日頃は近寄ってもいない本棚へと歩み寄り、古い地図を1冊取り出した。 文系が良いと口にしたのはこの地図を捲った記憶が過ぎったからである。 文系か理系かなどどちらでもいい。本当は今日でも明日でも学校を辞めたって構わない。それでも辞めないのは、琉太がそこにいるからだ。ただそれだけの──他人には、琉太にも決して言うことの出来ない理由が司を学校という場所に留まらせている。 手にした地図帳は小学生向けのものである。 地名にはフリガナが振ってあるし、難しいことは書いてはいないが日本や世界に纏わるあらゆる小学生向けの知識が詰め込まれている。地図帳というよりも図鑑に近いものだった。 この厚い表紙の本を捲る時にはいつも琉太が隣にいた。 もうずっと前──10年は経たないが、小学生の時にはよく家族旅行に行った。父親の趣味を兼ねていたのか、夏冬の長期休みはもちろん、ちょっとした連休でも電車や飛行機に乗るような遠出をしては観光地を見て回るような旅だった。 旅先ではいつも母親が琉太にも土産を買っていくように勧めたものだから司はそれに従い菓子やキーホルダーの類の物を土産として購入し、学校で琉太に渡していた。 その度、琉太は放課後になると司の家にやって来てこの地図を捲っていた。 どこに行ったの。どんな所なの。何を見たの。楽しかった?次はどこに行くのかな。 琉太は柔らかな眼差しの中に好奇心を存分に滲ませて司に訊ね、司は得意になって旅先での出来事を琉太に話して聞かせた。二人幼い額を付き合わせるようにして地図を辿り、指で示し、ここに行ったのだと胸を張り、今度はどこに行く予定だとまたページを繰って探した。 そんな司の話を聞く琉太の目に羨望の色があったかどうかは思い出せない。何せ小学生だ。自分が旅の思い出を話すことに夢中で細かな機微はわからない。 ただ、 「琉ちゃんも連れて行って貰いなよ」 数回はそんなことを口にした。そんなことだけ、覚えている。 立ったままページを繰るには重たい本を手にした司が軽く眉を寄せる。あの時、小学生の琉太はどんな顔をしていたのだろう。反応も見ずに次の話題へと移ったような気もする。 「……ガキは、馬鹿だな」 無邪気さは残酷さに直結しているということは今になってわかる事だ。 いつか母親が言っていた言葉が記憶に引き摺られるように顔を出す。 琉太くんのおうちは余裕が無いから。 それが家族旅行などする金銭的な余裕はないのだという意味だと知ったのはいつの頃だったか。そんな事を口にした母親の表情を忘れてしまっていることは、きっと自分にとっては良い事なのだろうと感じている。 琉太の家にはヨユーがない。そんなこと、小学生であった司には知る由もなかったが、琉太は恐らく知っていただろう。 馬鹿なことを言ったと思う。今ならば、思える。 琉太がこの街を出たのは小中高の修学旅行や研修旅行の類でのみだろう。恐らくそれすらも参加が危うい程に──琉太の家には余裕がない。 文系か理系かを選んだところで、その先は琉太には見えているのだろうかと思うも、自分に出来ることはやはり皆無だ。 文系でも理系でもどちらでも良い。 自分と同じクラスになるのなら、どちらでも良い。 琉太は確かにそう言った。反芻しては胸が早鐘を打つ。琉太の思いに他意はないだろう。 ──それはどういう意味だと確かめることは、出来ない。 「……出来ねえことばっかだな。俺、」 学校に留まっているのは、琉太がそこにいるからだ。 旅の話をしたのは琉太が喜ぶ顔を見たかったからだ。 文系を選んだのは、記憶が琉太に紐付いているからだ。 現在の自分の全てが琉太を中心に回っている。 それなのに、自分も同じ思いだと口にすることは出来なかった。恐らくそれを口にすることは、自分が琉太に出来る唯一だろうかと思うも、あまりにも不遜で、恥ずかしいと感じた。 ガキは馬鹿だと呟いたが、果たして自分はその頃から何か変わっているのだろうか。 ぱた、と音を立てて図鑑を閉じる。本棚に戻す手付きが無意識に丁寧なものになっていることに司は気付いていない。 次にこの地図を取り出す時には琉太が隣にいれば良いのに。思っては、琉太をこの部屋に招く理由を考えてみる。煙草の香りが染み付いてしまった部屋では、何一つ名案は浮かばなかった。

ともだちにシェアしよう!