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驟雨2
顔面が蒼白になった琉太の向こうに人影が見えた。
三方に棚がある狭い書庫のような相談室の中、窓のない薄暗い部屋の奥に立った進路指導の教員はさほど慌てるでもなく司を睨み付けている。その手元が、立ったままの男の下腹部の辺りで小さく動いている様子に気付いて視線を向け、今度は司の方が顔色を変えた。
琉太の乱れた制服と、進路指導の教員のベルトを締め直す手が、狭い密室で行われようとしていたことを示している。
短絡的で下卑た想像だ。思うより先に、司の頭に、血が昇った。
「───お前…っ、」
「っ、司くん…!」
何かを考える間もなく、自分たち以外の人間がいない廊下を真っ直ぐに、教員に向かって駆け出しそうになった司のシャツが強く引かれた。
振り返り、額に青筋が浮かぶ程に怒気のみが浮かぶ顔を琉太に向ける。離せ、言葉にならない声を残して再び上靴の底を蹴りあげようとするも、琉太は激しく左右に頭を振る。指が白くなるほど、シャツの襟元を握り締めていた。
「いいから、司くん」
「何が…、いいわけねえだろ、離せ、」
「いいから。俺、大丈夫だから。大丈夫なんだ。…だから、帰ろう、司くん」
俯いたままの琉太の細い髪がぱさぱさと揺れる。
絞り出すような声が微かに震えている。
この髪や、この指にあの男は触れたのか。
この、今は制服の下に隠されている身体にあの男は触れようとしていたのか。
そう思うと、なお怒りは収まらない。
緩んだままのベルトが目に入る。あの男も琉太も、下肢の衣服が緩んでいる。本来であれば、校内では有り得ない衣服の乱れが表しているそれは、目の前が真っ赤になるような憤怒をもたらした。
琉太は陵辱されかけたのか。
あの男に、犯されかけたのか。
───否、
「ね。帰ろう?司くん」
顔を上げた琉太の目を覗く。
本能としか例えようのない直感が司の背を震わせる。
陵辱されかけたのではない。
琉太は。
「…琉太、」
声が震えたのは、司の方である。
あの男に何をされたのか。あの部屋で、何があったのか。
自分は───少なくとも今は─── 聞けない。
呆然とした声音に琉太が顔を上げる。
途方に暮れたように眉を下げてはシャツから指を離し、そのまま司の指を探り、きゅ、とごく小さな力で握り込む。
縋るような目をしている。
自分に助けを求めるような眼差しを受けたことは、生まれて初めてのことかもしれない。
自分は琉太を助けなければいけないのだ。
例え、その理由を怖くて尋ねることが出来ないとしても。
「司くん。帰ろう。ね?」
説得するような口振りで、幾度も同じことを繰り返す。司に触れる指は震えてはいない。
琉太は、司よりも動じていないのではないか。
「……うん、」
司はきつく下唇を噛み締めた。
今自分が出来ることは、琉太の今の望みを聞くことしか残されていないのだと気が付く。
すっと脳が冷える感覚がある。
「帰ろう、…琉太」
ようやく深く頷いた。眉根を寄せる司を見上げた琉太が、安堵した目でほんの少しだけ笑った。
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