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驟雨3

気が付いた時にはもう激しい雨に濡れていた。 そんなことにも気が付かないくらい、司はただひたすらに歩き続けている。 軽く目を上げると、琉太の細い背中が見えた。 自分と同じように強い雨に打たれながら歩く琉太に指を引かれながら、ほんの僅かに体の一部を繋げていながらも、司は琉太が何を思っているのかがわからない。 濡れた前髪から水滴が落ちる。 霞む視界の向こうにある琉太の後ろ姿を見失ってはいけない。何故かそんなことを思いながら、ひたすら家に向かって足を進めた。 「…なあ、」 学校を出てから初めて声を掛けたのは司の自宅の前だった。 学校を出てから、というものの、あの薄暗い廊下からどうやって校舎を出たのかもよく覚えていない。 琉太が振り返る。ゾッとするほど表情のない顔をしているように見えて、司は一瞬怯むような感覚に陥る。 それでも、指をきつく握りしめた。 「…俺の部屋、来いよ」 琉太の家まではあと数メートル程でたどり着く。 それでも、琉太を一人きりにさせたくないと思った。 見つめる瞳が小さく見開かれたあと、雨の雫を落としながら、琉太が深く頷いた。 幸い家には誰もいなかった。 スニーカーを脱ぐ段階になってようやく指を離した琉太は、よく知る幼馴染の家に上がり、司の後ろに着いて行く。 途中で洗面所に立ち寄り、大判のタオルを手に戻ってきた司を待ち、二人は司の自室に入った。 会話はない。降り続ける雨の音を聞きながら、しばらく互いに濡れた髪をタオルで拭い、濡れたままの制服の不快感に眉を寄せつつカーペットの上に腰を下ろした。 「…あのね、司くん、」 琉太が口を開くと、司の心臓が嫌なリズムで跳ねる。 あの進路相談室で何が起きたのか。 琉太はどんな目にあっていたのか。 聞くのが怖い。 自分はこんなにも臆病だったのか。密やかに奥歯を噛みながら琉太を見やる。少年は視線を泳がせた後に、申し訳なさそうな目をして唇を動かす。 「…あの、ごめん、…濡れたタオルも、貸してほしい」 理由を問うよりも先に司は頷き部屋を出る。 駆け足で廊下と階段を抜け、また洗面所へと飛び込み、先程よりも小さい面積のタオルを2、3枚濡らしては絞り、手に抱えて部屋へと戻った。 「…ん、」 「ありがと、」 どこか放心したように座ったままの琉太に手渡し、自分の部屋だというのに所在なく居場所を探す。 そんな司から顔を背けた琉太は、おもむろに制服のシャツのボタンを外し、上半身を顕にした。 琉太の裸を見たのは何年ぶりだろう───視界の端に映るその光景に動揺する胸を悟られないよう、そしてその琉太から目を逸らし、司は自分の机の前にある椅子に腰掛けた。 琉太は、手にしたタオルで自分の体を拭い始めた。 ちら、と目を向けるとその手つきは丁寧で、そして丹念で、司は唇を噛む。 琉太の動作は慣れていた。 伏し目がちな横顔が、いつもこうしているのだと語っている。 琉太は陵辱されかけたのではない。 恐らくは、もう、何度も───。 「…俺ねえ、…平気だと、思ってたんだ」 「……」 司の視線に気が付いたのかはわからない。 手を動かし続けながら、琉太はぽつりと呟いた。 一瞬目を上げたものの、司は琉太の姿を直視出来ない。声音は笑っているようにも、何かを抑え込んでいるようにも聞こえた。 「先生がさあ、ちゃんとした奨学金出る大学に推薦してくれるって言ったんだ。ちゃんとしたところに行けばさ、母さんも楽に出来るかなと思ったし、…司くんと同じように、大学生活送れるんじゃないかなって思って、」 問わず語りの言葉は次第に司の背に恐怖を近付ける。 琉太はアルバイトこそしていないが、部活や校内活動にも属していない。授業が終わるとすぐに帰宅し、母親の代わりに家のことを行っている。成績の方も中の上の域に留まるような特筆したものを持たない生徒に推薦の理由を作ることは容易ではないはずだ。 そんなこと、司にも推測できる。 これ以上は聞きたくない。思っても、琉太には言えない。 琉太はきっと今まで、誰にもこの話をしていない。 淀みのない語り口は、いつか誰かに言おうと準備していたものなのか、それともあの廊下で司の指を握った後に考えていたことなのか。 「だからね、よろしくお願いしますって言ったんだ。そしたらさ、……俺の言うこと聞いたら、推薦状書くからって言われてさ、…でも、平気だと思ってたんだよね、ていうか、平気だった、し、」 次第に早口になる琉太の声が震え始めていることに気付き、司はようやく顔を上げる。 いつしか琉太の手は止まっていて、司が手渡したタオルを握りしめたまま、じっと床を注視している。 一度唇を噛み、また形の良い唇を開いた。 「先生にちょっと無理言うなら、…我慢しなきゃって思ってた。これから先の色んなこと考えたら、我慢できるし、平気だって思ってた。…でもさ、今日は、…縛ってしようか、って言われて、……怖く…っ、なって、」 琉太が口にすることは、今日の状況の説明だ。 だが、琉太はそれを恥じ入るように、言い訳をするかのような顔をして口にする。 言葉が詰まり、いよいよ語尾が震えた。司は思わず立ち上がる。椅子が軋む音に弾かれたように顔を上げた琉太は、司を見上げて無理やり笑おうと顔を歪めた後に───大きな瞳から、ぽろぽろと涙を零し始めた。 「琉太、」 「俺ねえ、……俺、そういうこと全部、…司くんと、したいと思ってたんだけどなぁ…っ、」 吐き出すような、慟哭にも似た声を聞いた。 口に出してしまうと再び俯いた琉太はひとつしゃくりあげ、声を殺して泣き始める。 様々に湧き上がる感情の中から、今はどれを選ぶべきなのかわからない司が立ち尽くす。 子供の頃に聞いたきりの琉太のすすり泣きが声に響く。 自分はどうして、どこかのタイミングで気が付くことが出来なかったんだろう。 好きだと思うばかりで、琉太の大切なことも、琉太の状況も何一つ知らなかった。 自分に出来ることは 何一つ無かったのか がくりと膝が折れる。 先程まであった恐怖の代わりに、無力感が押し寄せる。 指が震えるのはどの感情によるものなのか。 悔しさなのか、自分への憤りなのか。 何一つわからないまま、琉太へと指を伸ばす。 慰めたい、思いながら、まだ少し濡れたままの髪に触れたその時だった。 「…っ…!」 琉太は、大きく体を跳ね上げた。 ぱし、と音がして、司の指が払われる。 驚いた司の目に映る琉太の顔は、また蒼白になっていた。 「…あ…、」 「ごめん、」 一拍の沈黙の後、琉太が自分の取った行動に気が付き、また呆然とした目をする。 拒絶された司は瞠目したままそっと手を引く。 琉太の顔がぎゅっと歪み、衣擦れの音をさせて慌てて制服を着直しては立ち上がる。 「ごめん司くん。ごめんね、」 声はまだ泣いている。 それでも、琉太は背を向けてそのまま部屋を出ていく。 ぱたぱたと駆け足で去っていく音と、やがて玄関のドアが開閉する音を聞き届けたあと、司は崩れるようにその場に付した。 「……っ、」 一人の部屋に雨音が戻ってくる。 ぱたぱたとカーペットの上にシミが出来る。 いつ以来なのかわからない大粒の涙を落としながら体を丸める。 今泣くことが許されるのは琉太だけなのに。 そう思えば思う程、涙は止められなくなった。

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