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薫風
司の出席日数は、進級の後に琉太と同じクラスになった途端に群を抜いて増えた。
現金なものだと自覚はしている。周りの教員などは今までろくに顔を見せなかった司の姿に始めのうちだけだろうと思っている節は見られたが、ひと月を越え、連休が明けてもなお継続しているのだからこれはもう通学することが習慣となって身に付いていると断言出来る。
そもそも──三年に進級した途端に、これまで司と同じように学外で遊び呆けていた同学年の仲間は波が引くように付き合いが悪くなったことも影響している。この湿気た歓楽街が一つだけあるような片田舎の街では、進学しないことは即ち卒業後は街を飛び出して都会に出る事か、それとは対象的に街から出ることをせずに適当な勤めを探すか、もしくは真っ当な道から外れ続けることのどちらかを示す。司は未だにそのどちらとも決めあぐねている。学校に来ないことはまず自分の選択肢を狭めることは理解しているつもりだったからとりあえず出席日数を稼いでいるに過ぎない。
そして内心では、卒業後に真っ当な道とは違う道を進むような覚悟も度胸も持ち合わせていないのだということにもうっすら気が付いている。悪振って生きているのはただのポーズだ。今更それを認めることまた──若干17の少年には難しいことだった。
連休明けにクラスの総意として席替えの為のくじ引きが行われた。4月には出席番号順に並んでいた席順から、司は生来の引きの良さによって窓際の1番後ろの席を引き当てた。
教卓というものは立ってみると教室の中全てを見渡すことが出来る。だから意味がある物なのだな、と理解してはいるものの、1番後ろの席の居心地と理屈とは別だ。
授業中の司は机の上に両腕を組み、その上に突っ伏したまま耳だけは教師の言葉に向いている。昨夜の雨による湿気が残った教室の蒸し暑さに耐えかねた誰かが開けた窓からは新緑の香りを含んだ風が柔らかく吹き込んでくる。揺れるカーテンが時折黒板と司の間の視界を遮ったが、前を向いていない司には関係が無く、煩わしさを感じることもなかった。
勉強することを嫌いだと思ったことはない。ただそれよりも楽しいことを学校の外に見つけてしまっていただけなのだろうと俯瞰して思えるのは今こうして教室の隅にいるからだ。ずっと外で遊び回っているままではその事にも気が付けない。古文を担当する年配の教師の低い声が程よく眠気を誘っていた。
開いてもいないノートと、開くだけ開いた教科書の上で目を上げる。隣の列、司から斜めに直線を引いた先、3マス先に琉太の細い背中が見える。制服の背を丸め、縦書きのノートに熱心にシャープペンシルを走らせていた。少し伸びた襟足が白色シャツにかかっている。日に焼けていない項がやけに白く見えた。時折ノートから顔を上げ、窓から吹く風に心地良さそうに目を細める様子が伝わってくる。相変わらず、昼の日の光が似合うと思った。
琉太の隣の席のクラスメイトが何かを耳打ちする。体を少し傾けた琉太がそれを聞き入れ、軽く目を瞬かせた後にくすくすと笑う様が見えた。その様子にほんの僅かに胸がざわつくのは、嫉妬だろうという自覚はとっくにある。
琉太に話し掛けていいのは自分だけだ。
そんな幼い嫉妬を自覚しながらも自分は何も口には出来ない。好きだ、と口にした時に、琉太はあんな風に驚いた後に笑ってくれるだろうか。もしそうでなけれぱ、と思うとこの嫉妬よりも激しいざわめきに囚われ、恐怖に立ち尽くし、一歩も動けなくなる。
学校の外で、夜の街で散々行った度胸試しのような悪事など意味がなかった。怖いものなど何も無いと思っていたことが嘘のようだ。気持ちひとつ伝えることがこんなにも怖いものだとは思わなかった。
不意に琉太がくるりと振り返った。目が合う。動揺したのは当然司の方で、慌てて目を逸らした。
視界の端で琉太がまた大きな目をくるくると瞬かせ、小さく首を傾ける。知らない素振りをする司を振り返ったまま───小さく微笑んだ。
視界の隅で、それでも確かに収めた笑顔に一層胸は騒ぎ始める。外では5月の風が木々を揺らす音がする。その木や枝が揺れる音と、自分の胸や鼓動の音が重なり合い、共鳴するような感覚に陥った。
教師が何かを黒板に書く音をいた琉太がまた体勢を前へと戻した。視線は逸れる。それでも、司の中には余韻がある。
女を知らない訳では無い。童貞などとっくに捨てた。だが、琉太はそういった対象にはならない。
触れたいとは思う。だが、性欲を向けてはならない対象だとも思う。
その笑顔ひとつで自分を夢現にさせるような琉太は、司にとって神聖な場所に佇んでいる。決して汚してはならない存在として司の中で仄かな光を灯している。
同じ空間で、微笑みを向けられることの幸せがある。知らなかった幸せを甘受し、教科書の上に顔を伏せて余韻に浸る。そよ風が司の短い髪を撫でていく。
季節はまだ5月だ。この幸せはまだ、半年以上は続くのだ。
ふわふわとした幸福感に包まれつつ、司は自分の頭を載せた両腕の中で密かに口元を緩めてほう、と息を逃した。
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