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白雨

渡り廊下のガラス窓が雨で濡れている。 朝からどころか、ここ数日ずっと雨は止まない。本州の蒸し暑さを伴う雨とは違い、肌寒いだけの、梅雨とも名のつかない北国の雨はただ気持ちを憂鬱にさせるだけだった。 さっさと帰ろう。 職員室を出て、教室が並ぶ棟へ結ぶ渡り廊下をだらだらと歩きながら司が一人溜め息をつく。 学校に来るということは、やる事が増えるという事だ。割り当てられた日直を拒否することは簡単だが、その後に訪れることが予想される軽度な軋轢を回避する方が面倒くさい。 面倒見の良い担任は、放課後になってようやく書き終えた日誌を持ってきた司を嬉しそうに眺めて礼を言った。 誰かに礼を言われる経験は少ない気がして、なんと返すべきかわからなかった。 遠くで部活動に励む誰かの声が聞こえる。自分のそれとは異なる高校生活の音を聞きながら、自分の教室へと向かう。日誌を書いた後に鞄を持参して職員室に行くべきだった。そうすれば、再度教室に戻る手間は省けたのだ。 鼻から息を抜く。廊下を抜け、特別教室が並ぶ通路に足を踏み入れた瞬間、何かが動く音がした。 誰かが居残っているのだろう。何気なく耳を傾けた司の目の前に、生徒が一人飛び出してきた。 「───…、琉太、」 教室の扉が開き、姿を見せたのは琉太だった。大きく見開かれた目の縁が赤くなっている。泣いていたのか、と思うよりも驚く方が先に立った。シャツの襟元を抑えた琉太が司の姿にハッとしたように立ち尽くしてから、慌てた動作で腕を掴む。 「司くん、…まだいたんだ!一緒に帰ろうよ!」 「あ…?ああ…、」 驚いた余韻を引きずったまま曖昧な返事をするよりも早く琉太が司の腕を引く。そのまま歩き出しながら何気なく後ろを振り返ると、教室の中には自分達の進路指導にあたる年配の教師が憮然とした顔をして立っているのが目に入った。 不意に既視感に襲われる。 以前もこんなことがなかったか、と思い出そうとするも上手くいかない。ただ、琉太の手が妙に汗ばみ、体温が高いような気がしたことに気を取られた。 「なに。進路指導?」 「…え?」 珍しく早足で歩く琉太の後頭部に尋ねる。耳朶が少し赤くなっているように見えたが、近付いて確かめる咄嗟の勇気はない。 半身を振り返った琉太がさっと顔色を変えた。だがそれも一瞬のことで、すぐにぱ、と音が鳴るようにいつもの笑顔に切り替わる。重なる違和感と既視感に首を傾げつつも、顎で後方を示して見せた。 「あれ。進路指導の先生だろ」 「ああ…、うん、……あのね、俺、」 歯切れ悪く答えつつも琉太は足を止めない。まるで進路指導室から、進路指導の教師から一刻も早く遠ざかってしまうべきだと言わんばかりに廊下を行く。 そうかと思うと、司を振り返り、一度唇を閉ざした後にまた笑った。 「…俺ね、大学行けるかも」 「あ、マジで?」 「うん。あのね、…色々難しかったんだけど、ええと、奨学金とかちゃんとしてる所に推薦貰えるかもしれない」 琉太が、口には出さずとも卒業後の進路を就職か、もしくは出来る限り学費のかからない専門学校の進学かに決めていることは薄々気が付いていた。 同時に、琉太が大学生活にも憧れを抱いていることも知っていた。光明が差したのか。なんとなく呆けたような心地で聞きつつ、司が相槌を打つ。 「ちゃんとしたいい大学行ったら、いい会社に入れる率も上がるかもしれないし、そこでお給料も貰えばヒンコンの連鎖も断ち切れるから、って、」 琉太は少し早口になってからまた前を向いた。 ぎこちなく口にされた単語の残酷さくらいは司にも解る。 琉太の成績は十分だろう。勉強が嫌いな訳では無い司に関しても、大学へ行こうと思えば行ける水準は保っている。 互いの違いは、大学への進学の意志の有無と、経済的な余裕の有無だ。 進学する意思の薄い司の家には進学が叶う材力があり、進学を希望する琉太の家には、それに耐えうる経済的な余裕はない。 その事に目を逸らしていたのは司で、琉太は現実を見ていたのだろう。互いにそれを口にはしなかっただけのことだ。 喉に引っかかるような声が漏れた。 「良かったじゃねえか、」 「ね。…良かったんだよね、」 ようやく声を発した司に、琉太が軽く目を伏せ、呟くように落とす。 上手く表情が見えないまま、琉太は再び背を向けて歩き始める。 やがて廊下を渡り切った先、自分達の教室に辿り着いた。人気のないひんやりとした空気の中で互いに鞄を手に取る。 顔を上げた先にある窓を何気なく見やる。雨は、まだ止んではいない。

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